louribot’s blog

学習成果の出る企業内教育(教育全体)についての考察を語ります

金言「相手が学んだときだけ教えたことになる」 ~ 向後先生の本 ~

今回は、” 金言「相手が学んだときだけ教えたことになる」 ~ 向後先生の本 ~  ” というテーマで考えてみます。

「相手が学んだときだけ教えたことになる」

日本のインストラクショナルデザインという分野において、個人的に ” 二大巨頭(?)” だと思ってるアカデミアの先生は、元熊大で現在は武蔵野大の鈴木克明先生と、早稲田大の向後千春先生です。


鈴木先生は、「教育工学」から、向後先生「心理学」からインストラクショナルデザインにという流れですね?


鈴木先生とは平岡先生と共同研究をしたこともあり、何度も話をお聞きしたことがあり、、、というより、インストラクショナルデザイン ”  というモノを知るきっかけとなったため、” ほぼ鈴木信者 ” です。


一方、向後先生の方はというと、、、アドラー関係の本を(中古で買って)読んだのと、以前ネットで少しだけインストラクショナルデザインを説明している動画を見たくらいで、名前は知っているけれど、、、というくらいのモノでした。


しかし、SNS向後先生大学を退職されることを知り、” 最終講義 ” が誰でも参加できる、、、ということで、先日の   ” 最終講義 ” を zoom で拝聴しました。


” 最終講義 ” の内容については、まぁ、セレブレーションと21世紀のインストラクショナルデザインの概要みたいな感じで、楽しく聞かせていただきました。


ということで、2月末に出された「上手な教え方の教科書、実践編 / 向後千春」を購入して現在 3 / 4 ほど読み終えました(このところ、哲学系の本しか買っていなかったので、「教育」関連の本を新品で買うのは、、、「学習設計マニュアル: 「おとな」になるためのインストラクショナルデザイン / 鈴木 克明」を買って以来(この本はアドラーとか出てきて、向後先生の本かと思うような内容で、、、ちょっと違うなぁ、、などと思った次第です)なので、、、7年ぶりです)。


本の内容については、「教える技術」インストラクショナルデザインを学びたい(?)初級・中級者向けで、現在までのところ知らないコトバや内容はでてきていないのですが、読みやすく、最初に鈴木先生の本を読んだ時と同じで、


「そうそう!」

「そうですよね!」


ということがほとんどです。

しかも、これまで学んで重要だと思ったコト(テスト効果、ICE 、ベイトソン、学校教育、ヴィゴツキー、シンク・ペア・シンク、即時フィードバック,,,etc..)自分の信念(?)と被っており、、、非常に親近感を覚えてしまいました。


勿論、向後先生「心理学」が来ているというバイアスがかかっているのでしょうし、基本的に大学での対面講義を中心に書かれた本なので、鈴木先生「教えない教育」とはベクトルが違いますし、様々なインストラクショナルデザインのモデルが紹介されているわけもないのですが、「教育」や「研修」を行う人は、こういった本を待っていたのではないかとも思いました。


鈴木先生の著書や翻訳本は、「教育」を担当するようになって初めて読むにはなかなか難しい、、、(2度3度と読み返せば誰でも理解はできます)のですが、向後先生のこの本は、深く複雑なコトではないが「教育・学習」の基本中の基本が書かれています。


そういえば、「 PSI (Personalized System of Instruction):個別化教授システム」 と、「教育者の成長 / フレッド・ケラー」を知ったきっかけも向後先生が何かで紹介していたからでした!


この向後先生の本はまだ最後まで読んでいないので、とりあえず最もインパクトのあった金言(?)を紹介します。


「相手が学んだときだけ教えたことになる」


これなんです!


「教育」というのは、「学習者」が「学習をして」成り立つモノです。


しかし、こんな簡単な(と思われる)原理の認識を持ち合わせていない人がほとんどです(勿論、学校教育で行われている形態、方略のためです)。


「教育」は「教育」、「学習」は「学習」と分けることは必要です。それがあるからインストラクショナルデザイン「教える技術」も存在するわけです。


ただ、「教育」の目的を、はじめから、もしくは途中で見失うのです。


それゆえ、鈴木先生は「教えない教育」と言い出したのだと思います。

向後先生は、「上手な教え方」という表現をしました。


「教育」がどんなモノであっても、「上手な教え方」ができなかったとしても、「学習者」が「学習をして」、「学んだ」のなら、それはそれでいいのです。


某スパルタ高校で、今年の東大合格者が劇的に少なくなって、教師が異動、更迭(?)されるのでは、、、、などということがSNSで話題になっていましたが、その高校でどのような「教育」「教え方」をしているのか知りませんが、「学習者の成果」を「東大合格」としていたのであるのなら、目標を達成できなかったわけですから、ある意味当然のようにも思います(とはいえ、スパルタ教育自体にネガティヴな感慨はありますが、、、)。


「学ぶ人」がいなければ、「教育」も「教える技術」も「教える人」も必要がありません。


そのことが理解できる人には、


「相手が学んだときだけ教えたことになる」


は、金言となります。