louribot’s blog

学習成果の出る企業内教育(教育全体)についての考察を語ります

「応答する環境」と「オペラント条件付け」の簡単な考察(概念のパラドクス)

今回は、 ”「応答する環境」と「オペラント条件付け」の簡単な考察(概念のパラドクス) ” というテーマで少しだけ考えてみます。

 

「応答する環境」と「オペラント条件付け」の簡単な考察(概念のパラドクス)


どちらもCAIの大元のような考え、ツールであり、現代のICTによる教育などにも大きな影響を与えているモノですね?


「応答する環境」は、障害者教育や子供の教育の分野で今でもよく語られるモデルのようですが、一部は大学教育などでも取り入れているところもあります。


一方「オペラント条件付け」については何度も記してきていますが、学校、塾、企業において根本的な教育・学習の土台とすべき考えだと思っています。


「スキナー好き」な者としては、どうしても「オペラント条件付け」の方を優遇してしまうのですが、なるべく客観的に考えてみます。


(応答する環境)


子供の環境への多様で豊富な働きかけに対して、環境からの適切な応答性が子供の知的好奇心を喚起するという考え。

CAIなどの文脈で、ムーアによるトーキング・タイプライタ等を組み込んだ学習環境。

子どもが何かを発信したときに、大人や周囲がそれに対して丁寧に反応・応答することで成立する環境のこと。

子どもが話しかけたり、行動したりしたことに対して、大人が共感し、受け止め、言葉や態度で応える。

子どもが興味を持った物や自然に対して、自由に関われるような環境を整える。


(応答する環境の意義)


・子どもの主体性を育む

子どもが自分の「やりたい」「知りたい」という気持ちを表現し、それに応えてもらえることで、自分の意思を尊重される経験を積む。その結果、自分で考え、行動する力が育つ。


・自己肯定感と愛着の形成

応答されることで「自分は認められている」と感じ、自己肯定感が高まり、大人との信頼関係が築かれ、愛着形成にもつながる。


・コミュニケーション能力の基盤形成

自分の言葉や行動に対して反応があることで、言葉の意味や使い方を学び、対話の楽しさを知り、社会性や人間関係の構築にも影響する。


(応答する環境の教育的視点)


・学生が身近な環境を経験し、それを意味として蓄積する授業展開。

・学習者が環境に主体的に関わり、相互作用によって意味を見出すことが、成長や発達に影響を与えるという視点。


(応答する環境の実践ポイント)


・子供に反応を強制せず、自由に探索させる

 

・子供の行動と環境の受け答えの間には一定の規則性があり、子供が何か行動すると、その結果が、すぐに子供にしらされる

 

・学習速度が子供自身によって決められる

 

・環境内の諸関係、あるいは子供の行動と、それに対する環境の応答との関係を発見するために、子供が頭を働かせ思考する


・そこで発見される構造が広く物理的・文化的・社会的な構造の発見に応用される


ということです。


そこで、「オペラント条件付け」との違いは? というと、教える側が主体であるか、学習主体であるか、というところが大きいと思います。


・応答する環境


子どもの主体性や内発的動機を尊重する教育アプローチ。

子どもの行動や言葉に対して、大人が共感的・意味的に応答することで、子どもが自分の存在や思いを認められたと感じる。

応答は「報酬」ではなく、「関係性」や「意味の共有」に基づく。

相互的な応答・関係性

子どもの位置づけは主体的な存在

目的は自己肯定感・関係性の構築


・オペラント条件付け


行動の後に報酬(強化)や罰(弱化)を与えることで、望ましい行動を増やし、望ましくない行動を減らす。

外的な刺激(報酬・罰)によって行動をコントロールする。

強化と罰による行動形成

子どもの位置づけは行動を変える対象

目的は行動のコントロール


ということで、上記の内容を比べると、” 教育・学習という観点のボリュームを下げた ” としたら、圧倒的に「応答する環境」の方が優れているように感じられますね?


しかし、実際に ” 学習者が学習する ”  ということが目的である「教育」としての観点で捉えると、「オペラント条件付け」の方が ”効果・効率 ” 的に優れていると思うのです。


その根本には、


「人は生涯学び続ける」


という概念と、


「人は根本的に怠惰である」


という ” 概念のパラドクス ” があります。


これをどう捉えるかということは人によって全く違うでしょうが、いい加減な人間である私などは、「楽にこしたことはない」と考えてしまうのです。


「応答する環境」ですべての学習者が自ら「学ぶ」ようになるなら、それは最高ですね?


そうなれば、インストラクショナルデザインも教育・学習理論も不要となるわけです。


しかし、現実はそううまく行っていないように思うのです。


大昔の歌の歌詞にこういうのがありました。


「何がいいとか悪いとか、そんなことじゃないんです・・・

 僕は信じるんです、唄わないことが一番いいんだと言える彼を」


何かを変えたいから、変えないといけないから、彼は唄うわけです、、、、


同じように、誰もが自ら「学ぶ」のであれば、それが一番いいことですし、理想です。


しかし、人間であるかぎり、結局のところはそうはいかないのだと思うのです。


それゆえ、「学ぶ」方向に強引であり、強制であったとしても導くことが必要な場合があるわけです。