louribot’s blog

学習成果の出る企業内教育(教育全体)についての考察を語ります

「符号化特定性原理(Encoding Specificity Principle)」を考慮したインストラクション

今回は、”「符号化特定性原理(Encoding Specificity Principle)」を考慮したインストラクション ”  について考えてみます。


「記憶」の量、質については、人によって当然差がありますし、基本的には「学習者」側の問題です。

符号化特定性原理(Encoding Specificity Principle)

「教える側」の人たちが「学習者の記憶」を促す方略といえば、具体的には、 ”環境提供 ”、 ”語呂合わせ ”や ”関連情報の提供 ”、 ”ゲーミフィケーション ”のようなモノ、抽象的には、”動機づけ ” や ”記憶術の紹介(?)” など様々あります。


「記憶」については、大昔からいくつもの理論や学説があり、これまでもいくつか記してきました。

何が正しくて、何が間違っている、、、ということが非常に不明瞭な問題です。

 

人間の「脳」の機能が完全に理解されることは永遠にないようにも思いますが、実験や研究を重ねて、統計的結果や、その傾向についてはある程度 ”正しい ” と定義されています。


今回は「符号化特定性原理(Encoding Specificity Principle)」を、ある程度 ” 正しい ” モノとして、どのようなインストラクションが考えられるか? についての話です。 


(符号化特定性原理:Encoding Specificity Principle)


・思い出しやすさの原理

・ある情報が記憶されるとき、その情報とともにその情報が符号化された環境や状況も一緒に記憶されるという説。

・情報の記憶が形成される際に、その情報と関連する手がかりが一緒に符号化される。

・エンデル・トゥルヴィング(Endel Tulving)によって提唱された。

・情報を思い出す場合、その情報が符号化されたときの状況や手がかりが再現されると、記憶の検索が容易になる。

・学習や記憶のテクニック、例えば環境依存記憶や状態依存記憶など、さまざまな記憶の現象を理解するために重要。


(記憶の符号化:Encoding)


・情報を取り込んで記憶として保存する最初の段階。

・外部からの情報が脳内で理解しやすい形式に変換し、後で取り出せるように記憶として保存する機能。

・感覚情報(視覚、聴覚、触覚など)、意味的情報(概念や言葉の意味)などが含まれる。

・「憶える」過程のこと。


(符号化特定性原理を考慮した(?)インストラクション)


1. コンテキスト一致学習

・学習内容を学ぶ環境と、情報を後で使用する環境(テスト環境等)をできるだけ一致させるようにデザインする。

・教室環境の再現

 >テストが行われる教室で授業を行う。

・同じ時間帯での学習

 >同じ時間帯で学習とテストを実施する。


2. 手がかりの使用

・学習内容を思い出す際に役立つ手がかりを提供する。

・視覚的手がかり

 >図やイラスト、マインドマップを使用して情報を視覚的に提示。

・キーワード法

 >重要なキーワードやフレーズを強調し、それらを関連づけて覚えるよう指導。


3. 状態依存学習の活用

・学習時の身体的・心理的状態を意識させ、それを再現するようデザイン。

・リラクゼーションテクニック

 >学習前にリラックスする方法を教え、テスト前にも同じ方法を使うように指導。

・一定のルーチン

 >特定の飲み物(カフェインなど)を飲みながら学習し、テスト前にも同じ飲み物を摂取する。


4. 多様なコンテキストでの学習

・異なる環境や状況で同じ内容を学習することで、情報を多角的に符号化。

・場所を変える

 >学校内の異なる教室や自宅など、様々な場所で同じ内容を学習。

・異なる形式での学習

 >音声講義、ビデオ、グループディスカッションなど、多様な形式で同じ内容を学ぶ。


5. テストとフィードバック

・テストを行うことで、符号化された情報を繰り返し想起し、記憶を強化する。

・クイズや模擬試験

 >定期的にクイズや模擬試験を実施し、学習内容を確認。

・フィードバックの提供

 >テスト後に詳細なフィードバックを提供し、間違えた部分を再学習。


6. 意味的符号化の強化

・情報を深く処理し、意味的に理解するように指導。

・関連づけと応用

 >学習内容を日常生活や他の学問分野と関連づける。

・ディスカッションと説明

 >学習内容を他の人に説明させたり、ディスカッションを行うことで、深い理解を促す。


7. マルチモーダル学習

・異なる感覚チャネルを使って情報を符号化。

・視覚と聴覚の併用

 >スライドプレゼンテーションと口頭説明を組み合わせる。

・実践的活動

 >実験やフィールドワークなど、体験を通じて学ぶ機会を提供。


といった感じです。

中には矛盾した方略もありますが、


「何が誰の記憶に効果があるか?」


は、インストラクションの前にはわかりません。


しかも、「記憶」は時間によって確実に減衰していきますから、インストラクション直後の事後テストで確認してもあまり意味がありません。


ではどうするか?

これは非常に時間と手間のかかるデザインになります。


1.” 教える側が「符号化特定性原理」に沿っていると考えた方略 ” を実施

2.一定の期間を経た後、再度(もしくは何度も)テストで記憶を確認

3.各人に対する影響を確認する

 

それで、

 

・効果のあった学習者には同じ方略を取る

・効果のなかった学習者には違った方略を取る


しかありません。


一般の内容の学習、記憶であれば、通常ここまでやることは非常に効率が悪いので、必要がないでしょうが、

”これだけはどうしても記憶しないといけない内容 ”

の場合、例えば「命」にかかわる内容等の場合には、ここまでやる必要があると思います(看護師へのインストラクションでは、様々なシステマティックな方略が用いられ、それなりに効果を出しているように思います)。

 

いずれにしても、コンピュータのメモリやSSD、HDDと違って、「人の記憶」はいつの時代も曖昧で、面倒なものです(それ故、面白いとも言えますが)。

「知能」と「知性」 ~ 人工知性(?) ~

今回は、 ”「知能」と「知性」 ~ 人工知性(?) ~ ”  というテーマで少しだけ考えてみます。


「AI:人工知能(Artificial Intelligence)」GPTによってトレンドになる前から、「知能」「知性」は違うモノだ、、ということを多くの人が語っていました。

「知能」と「知性」

確かに、「知能」「知性」は違うのでしょう。


人工知能」はできても、「人工知性」はできない、、、だから人間は偉大なのだ、、、みたいなことを様々なところで耳にし、私自身も「知性」はムリだろうな、、、と思って、そのようなコトを記していました。

「だから、シンギュラリティなんてありえない、、、」と思っていました。


しかし、どうも状況は ” 劇的に変わりつつある ” ように思われます(因みに、これはAIの進化が更に進んだという話ではなりません)。


そこで、改めて一般的な「知能」「知性」について再度考察してみます。


(知能:Intelligence)


定義

情報を迅速かつ正確に処理する能力を指し、学習、記憶、問題解決、環境への適応などの能力を含む。知能はしばしばIQ(知能指数)などの指標で測定される。

特徴

具体的なタスクや問題を効率的に解決するための実践的な能力に関連している。論理的思考、数学的能力、言語能力などの特定の認知機能に焦点を当てることが多い。

数学の問題を迅速に解くことや、言語を速やかに学習すること。

・「ものごとを理解したり判断したりする力」

・「明確な答えがある問題について考える能力」


(知性:Intellect)


定義

主に思考、理解、推論、判断などの能力を指す。抽象的な概念を理解し、複雑な問題を解決し、論理的に考える能力が含まれる。

特徴

哲学的、倫理的、文化的な問題に対する洞察力や理解力も含まれる。知識の応用や創造的な思考も知性の一部と見なされる。

複雑な哲学的議論を理解し、新しいアイデアを生み出すこと。

・「ものごとを知り、考え、判断する能力」

・「答えの“ ない ”問いの答えを探し続ける能力」


というようなことが「知能」と「知性」の違いだと認識されていました。


ところが、昨今の世の中で起きている戦争、政治、選挙、教育、、、などの社会状況を考えると、


これまで人間が「知性」として守ってきた領域やプライド(?)のようなものが確実に崩れてきている


のではないか、と思わざるをえません。


「知性」は、人間の思考、理解、推論、判断などの能力を指し、単純なデータ処理や計算能力だけでなく、概念の理解や、創造性などが含まれると言われます。

また、AI使用で常に問題として取り上げられる「倫理」という問題もあります。


AIが人間の「知性」を超えることシンギュラリティ (singularity) とか言って、20XX年にシンギュラリティが起こる、、、みたいなことは多くの人が予想したりしていました。

しかし、シンギュラリティ (singularity) が人間の「知能」ではなく「知性」を超える現象と捉えるなら、AIは「人工知性(Artificial Intellect)」とされるべきですね?


まぁ、コトバは人工知能でも「人工知性」でもどちらでもいいのですが、コンピュータやプログラムが人間に代わって意思決定や選択、創造する未来はもはや目の前に来ているように感じています。


これまで、今のAIは、「中学生レベル」と何度も記してきました。

それは、「知能レベル」がということです。

勿論、「中学生」というのは尺度としての例えです。

 

「新生児」→「幼児」→「小学生」→「中学生」→「高校生」→「大学生」

 

という尺度で考えた場合、半分より少し進んだ、、、という考えです。

 

ここでの「中学生」というのは、一般の人間の知識レベルはとっくに超越しています。

それはそうでしょう、データがある限りコンピュータは間違わないし、忘れることもありませんから、、、

「知能レベル」はあと10年か20年かで、間違いなく「大学生レベル」に達するでしょう。


では、問題の「知性レベル」はどうか? というと、

上の尺度で考えると、まだ「新生児」と「幼児」の間くらいかなと思います。


思考、理解、推論、判断、概念の理解、創造性、そして倫理、、、のレベルはまだまだ決して高くはありません。

プログラムがプログラムを自動生成して様々な事案に対処するということは、既にできている部分もあるし、今後は急速に増えていくでしょう。

 

そして、その「知性レベル」が「幼児」を超えた時「人工知性」に、思考や判断、創造といったことのほとんどが取って代わられるのではないでしょうか?


人間の最高の知性を「大学生」とするなら、「幼児」ではまだまだじゃないか? と思われるでしょうが、それは違います。

 

人間の「知性」の相対的なレベルがここ数十年で驚くほど下がっている

 

と思うのです。


論理的な判断、ファクトチェック、フェイクに惑わされない、、、そんな人間が非常に少なくなってきています。

メディアがこういえば、「こうだ」、SNSで流れてきた内容を「鵜呑み」、インフルエンサーが動画で煽れば「どこにでも駆けつける」


これは、デジタル・ネイティブやZ世代といった若い人たちだけではなく、もう人生の終盤にさしかかった私たちの世代でもそうです。

本を読むより、ネットで情報検索、、、、の時代。ネットに嘘が含まれていてもすべてをそのまま受け入れる人が急増しています。


自分で学び、自分で考え、その整合性を問う、、、といったようなことは最早時代遅れ(?)となってしまったようです。


「知性」の無い政治家や指導者の下、戦争はいつまでも終わらず、デマを信じて選挙に行く、IT機器を導入するだけで教育が進む、、、と思っている状況では、寧ろ「人工知性」にすべて判断を任せた方がいいのではないか、、とまで思ってしまいます。

 

教育関連で考えると、国立大学にも関わらず、授業料を10万以上上げることを判断した東大の総長や、国公立大の授業料を150万にしたほうがいいと言い放った慶応大の総長より、「人工知性」の方が確実に良い判断を下せるように思います。

 

もしかすると、全ての「教育デザイン」「人工知性」に任せれば、論理的で効果・効率のよい「教育」が行われ、「学習者」のためになるのではないか? という気もしています。

 

遅延割引(Delay Discounting)を逆手にとる ~ 一夜漬けの心理 ~

今回は、” 遅延割引(Delay Discounting)を逆手にとる ~ 一夜漬けの心理 ~  ”  について考えてみます。

遅延割引(Delay Discounting)

(遅延割引:Delay Discounting)


報酬が得られるまでの待ち(遅延)時間によって報酬の主観的価値が低下すること。

学習心理学では、即時少量報酬と遅延多量報酬の間の選択場面で前者を選択することは衝動性、後者を選択することはセルフコントロールと定義されており、遅延価値割引の程度は衝動性の程度を表すとされている。

すぐに獲得できる報酬のほうが遅延報酬よりも好まれる。

「未来の報酬や負担を少なく見積もる」現象のこと。


(学習における遅延割引)


1. 学習の基本原理

学習における遅延割引は、主に強化学習reinforcement learning)の文脈で理解される。報酬や罰を通じて行動を調整するプロセスにおいて未来の報酬がどのように評価されるかに影響を与える。


2. 強化学習と遅延割引

強化学習において、行動が報酬や罰によって強化されると、その行動の頻度が変わる。報酬が遅れて提供される場合、その価値は時間とともに減少する。

 ・即時報酬: 即座に得られる報酬は、最も高く評価される。
 ・遅延報酬: 将来に得られる報酬は、その遅延時間に応じて低く評価される。


3. 学習プロセスへの影響

・短期的な行動強化

学習者は即時の報酬を重視するため、短期的な行動が強化されやすくなる。

・長期的な行動の難しさ

遅延報酬が低く評価されるため、長期的な目標達成のための行動が難しくなる。試験勉強を先延ばしにする学生は、即時の娯楽を優先し、将来の成功を犠牲にすることがある。


4. 動物実験と遅延割引

ラットが迷路を学習する際、即時の報酬がある経路を選びやすくなる。遅延報酬がある経路は、その報酬の価値が低く評価されるため、選ばれにくくなる。

 

5. 遅延割引の測定

一般的な方法は、被験者に異なるタイミングで異なる金額の報酬を選ばせ、その選択パターンを分析する。被験者がどの程度未来の報酬を割引して評価するかを明らかにすることができる。


6. 遅延割引の応用

遅延割引の理解は、教育や訓練プログラムの設計にも応用される。

 ・即時報酬の提供: 学習者が短期的な目標を達成した際に即時の報酬を提供することで、学習のモチベーションを高める。
 ・長期的報酬の強調: 長期的な報酬の価値を強調する教育プログラムを設計し、遅延割引の影響を軽減する。


ということです。


要は、” トータルな学習の価値や目的・目標 ” が、目の前の現実に負けてしまうというような感じです。


 ” 遅延割引(Delay Discounting)” で考えられる典型的な学習の例では、


 ” 定期テスト前の一夜漬け ”


があります。


” 一夜漬け ” に効果が無いというのは、今ではかなり一般的になってきましたが、それでも9割以上の人がやっている行動ですね?


このような ”ムダな学習 ” を無くそうと考えると、以前にも記した定期テストを無くす」という ” 安易な発想 ” が生まれます。

 

しかし、現実的に考えると(繰り返しますが)、

定期テスト」は、” ほとんどの場合 ” 必要です。

 

普通の学校においては「入試・受験」があり、定期的な知識の習得を測り、自分がどの学校へ行けるか、受験できるかを判断するツールとなります。

また、「定期テスト」は。1つの内容だけを問うのではなく、一定期間に学んだ範囲の多くの問いであり、ある程度、” 完全習得学習 ” の指標にもなりえます。

 

勿論、毎回の授業において TOTE-MODEL 的なインストラクションを行い、且つ、その各テストのトータル成績で入学できるような制度ができれば定期テスト」など不要ですが、現実にはそのような制度はないので仕方がありません。


では、このような ” 遅延割引(Delay Discounting)” を ” 回避 ” させること、” 一夜漬けの心理 ” を ” 軽減 ” させるにはどうすればいいか?

まず考えられるのが、誰もが使う


” 理想(将来)の姿をイメージさせる ”

とか、

” ギャップを埋める ”


ことを強化する方略です。

しかし、これは既に ” 遅延割引(Delay Discounting)” に負けてしまっています

誰もが ” 理想(将来) ” をイメージして学習デザインを作成し、その通りに遂行できるのであるなら何の苦労もありませんし、ある意味「教育」など必要ないのかもしれません。

明日のテストより、5年後、10年後の ” 理想の自分 ” のために行う学習を遂行することは容易なことではありません。


そうではなくて、「教育デザイン」がキーとなります。


” 学習者が「学習デザイン」を作れない、作ったとしても遂行できない ”


という ” 現実を受け止めて ”「教育方略デザイン」を提供することです。

一つの方略としては


・「定期テスト」の日程を教えない

・科目ごとに当日「定期テスト」を行うことを宣言する


というのはどうか? と、思っています。

 

定期テスト」の日がわからなければ、” 一夜漬け ” はなくなります。


「それこそ突飛で、安易な考えだ!」


と、言う人が多いでしょう?

勿論、各授業、インストラクションにおいて習得の評価ができるデザインが最も重要です。


その上で、いつ「定期テスト」があるのかわからないという ” 遅延割引(Delay Discounting)”を逆手にとるというのはどうでしょう?


「不安やストレスを煽るのでは?」


という考えもあるでしょうが、どういった科目や学問においても、学習というのはトータルなものですから、前提知識を習得し、インストラクションを受けてその内容を完全習得し、次の学習を行う、、、という、” 真正な教育デザイン ” を作成すれば、学習者の「学習」を支援することになると思うのです。

 

そうすれば、学習者は ” 理想(将来)の姿をイメージ ” することもできるようになるのではないでしょうか?

地頭(じあたま)なんていうモノはありません!

今回は、「地頭(じあたま)なんていうモノははありません!」 というテーマで少し考えてみます。


他人ネガティブに褒めたり積極的に貶したりする際、


「地頭(じあたま)がいい」

「地頭(じあたま)が悪い」


というような表現を使う人がやたらと増えています(最近では小学生も使っています、、、)。

地頭(じあたま)

(地頭の概念)


・直感的な理解力

新しい情報や概念を素早く理解する能力。説明を受けるとすぐに本質をつかむことができるかどうか。


・柔軟な思考

既存の枠にとらわれず、問題を多角的に考えることができる力。創造的な解決策を見つけるのが得意か不得意か。


・適応力

環境や状況の変化に対して迅速に適応し、最適な行動をとることができる能力。


・論理的思考

情報を論理的に整理し、筋道を立てて考えることができる能力。複雑な問題を分かりやすく解釈する力。


・学習能力

新しい知識やスキルを効率よく習得し、実際に応用する能力。


・洞察力

物事の本質を見抜く力。細かな部分から全体の流れやトレンドを把握することができるかどうか。


このような「能力(?)」の総合的なレベルが高い人を「地頭がいい」、そうでない人を「地頭が悪い」ということのようです。


” 頭の回転が速い人” 「地頭がいい」と言ったりもします。


また、学力が高かったり学歴のある人を「頭がいい」というのと比較して、学力や知識量に関係なく、理解力が速かったり、柔軟な思考力を持った人たちのこと「地頭がいい」と呼んだりしています。


さらに、「地頭を鍛える」方法や習慣、、、などというビジネス書も出ているようです、、、。


(地頭を鍛えるには)


・思考手法を知るフェルミ推定

・地頭がいい人のまねをする

・地頭がいいと思う人からアドバイスをもらう

・読書をする

・答えを出す習慣をつける

・日常的に文章を書く

・相手を否定しない

・趣味を楽しむ


だそうです、、、、。


” 完全に怪しい! ”


ですね?


もう、フェルミ推定 というキーワードが出てきた時点で ” 思考終了 ” です。


「地頭(じあたま)」というコトバを誰が言い出したのかは知りませんが、コンサル会社HD(Human Development)会社がトレンドに持ち上げたことは間違いありませんね?


「地頭(じあたま)」って何でしょう?

どうやって優劣をつける(評価する)のでしょう?


勿論、世の中には曖昧な概念やエビデンスに頼らない判断も山ほどありますし、世界とはそういうものです。


しかし、” 好き嫌い以外で人を評価、区別する ” 際に、このようないい加減な概念やコトバを使うことに違和感を感じてしまいます。


明確に記しますが、


「地頭(じあたま)がいい人」

「地頭(じあたま)が悪い人」


など決していません。このコトバの対象自体が存在しないのですから、、、


学力や知識、学歴などは具体的に判断することができます。よって、そういった基準で「頭がいい」とか「賢い」とか、「努力家」などと呼ぶのはいいでしょうが、

” 何となくの感覚 ” で「地頭(じあたま)」などという ” いい加減 ” なコトバを使うことはよくないと思うのです。


最初に「ネガティブに褒める」と記しましたが、通常この「地頭(じあたま)がよい」と表現される場合、


・勉強していないのに、ある程度の成績が残せる


とか、


・初めてやる処理なのに、それなりに上手くやってる


といった、完璧ではないが、学習・練習していない割には、、、という場面で使われますね?


また、「積極的に貶す」時には、


・あれをやってもダメだからこれもできない

 

とか、

 

・彼(彼女)はバカだから


という具合に、他のことがうまくできない、知らない人は、すべてのことにおいて劣っている、、、といった風に区別します。


正直、「地頭(じあたま)」などというコトバを使っている場面に出くわすと、「具体的に地頭って何?」と思ってしまいます。


同じ学習をしても、人によって習得できるまでの時間は違います。しかし、一度でダメなら二度、三度と学習すれば誰にでもほとんどのことは習得できます。

人間の持って生まれた能力には、ほとんど違いなどありません。

学習するか、しないか、だけのことです。


” 頭は回転しません ”

 

し、

 

” 地頭(じあたま)などというモノはない ” 

 

のです。

 

「間違いノート」の間違い ~ 知識の断片化 ~

今回は、 ”「間違いノート」の間違い ~ 知識の断片化 ~ ”  ということについて考えてみます。


学校や職場、塾などで、「間違いノート」を推奨する人がよくいます。

間違いノート

「間違いノート」というのは、

 

テストや学習過程で間違えたりわからなかったりした問題や事項、作業でのミスだけを記したノート

 

のことです。


発想としては、”  間違い、ミスのインデックス化 ” と、” 再学習ツール ” の意味合いが強く、学習に大きな効果がある、、、ということなのでしょうが、さて、本当に効果があるのでしょうか?


「間違いノート」メリットデメリットについて考えると、


(メリット)


・理解の深化

自分がどこで間違えたのかを明確にすることで、理解が浅い部分や誤解している部分を特定しやすくなる。


・復習の効率化

間違えた問題だけを集中的に復習することで、効率的に弱点を克服できる。


・自己分析能力の向上

自分の間違いのパターンや傾向を把握することで、自己分析能力が向上し、今後の学習計画を立てやすくなる。


・記憶の定着

間違いを記録し、それを見直す過程で記憶が定着しやすくなる。間違いを修正することは長期記憶に効果的。


・モチベーションの維持

間違いを克服する過程で達成感を得られ、学習のモチベーションを維持しやすくなる。


(デメリット)


・時間がかかる

間違いを記録し、それに対する解説や正しい答えを書くことには時間がかかり、時間管理が難しくなることがある。


心理的なプレッシャー

間違いを記録することが精神的なプレッシャーになる。間違いが多いと感じると自己否定的な気分になる可能性がある。


・フォーカスの偏り

間違いにばかりフォーカスしてしまい、正解した部分や得意な部分を見落とす可能性があり、バランスの取れた学習が難しくなる。


・管理の手間

ノートの管理や整理が必要となり、これが手間と感じる人もいる。ノートが増えてくるとスペースの問題も発生。


といった感じです。


” ミスの修正 ” という部分だけを考えれば、「間違いノート」は確かに有効かもしれません。

 

しかし、「間違いノート」には致命的な弱点、というより ” 有害 ” な要素があります。

それは、


” 知識の断片化 ” 


ということです。

 

「間違いノート」には各内容の ” 流れ ” がありません。間違ったコトだけを記しています。


「学習」というのは、

 

” 連続した知識・スキルを習得する行為 ”

 

です。


前提知識その他の関連性も何もない「間違いノート」は、知識を断片化します

 

” 知識を断片化すること ” は「学習」にとっては最悪です。

 

これを「英単語帳」のように ” 言語情報(記憶)” 習得のツールとして使うのであれば、少しは役に立つこともあるかもしれませんが、わからなかった内容を ” 学習 ” するということであれば、効果は非常に薄いようにも思います。


「間違いノート」など作る時間があるのなら、再度その内容を完全に理解するまで学習するべきですね?

 

自分の理解を纏めたノートを作ること自体はとても効果のあることですが、間違い、ミスだけを集めた「間違いノート」などわざわざ作る必要は全くないと思います。


誰にとっても時間は有限です。ムダなこと有害なことに時間を費やすのをやめましょう!

会社を辞めて修士・博士課程に行くということ ~ 日本文化の中での大学入り直しの困難 ~

今回は、” 会社を辞めて修士・博士課程に行くということ ~ 日本文化の中での大学入り直しの困難 ~ ” ということについて考えてみます。


日本でも、極たまに、会社を辞めて大学、大学院に行くという人がいます(年々少しずつは増えてきているとは思いますが)。


「学びたいことがあるから、学べる環境に身を置く」


という、当たり前の考えが、受け入れられづらい社会です。

会社を辞めて修士・博士課程に行く

海外では、修士・博士課程だけでなく、大学を卒業して会社勤めをした人が会社を辞めて、新たに大学に入り直すなどということが普通にありますが、日本では非常に少ないのです。。


今のこの国や国民の経済状況を考えれば、納得できないこともないのですが、、このことは高度成長期バブル期も同じ状況でした。


企業側の戦略において、社員としてのポジションは残したまま(給料も払って)、会社側が入学金、授業料を支払って修士、博士を獲らせるということは大昔からありました。

エリート社員に箔をつけさせることが目的であったり、特定大学の研究室や教授との関係を深める、持続させるためなど、様々な理由があるのですが、今回は、会社を辞めることなく、企業(学校)主導の事案は考えません。


では、

 

他国では普通である「学び直し(大学入り直し)」がなぜこの国では困難なのか? 

 

と考えると、通常「経済的要因」が殆ど、もしくは割合が大きい、と考えがちです。

 

勿論、大学や大学院に進学すると、多額の学費生活費が発生し、会社勤めで貯めた貯金を食いつぶす(?)か、教育ローンに頼らざるをえません(親が裕福で援助してもらうというのもありますが)。個人の「経済」を考えれば、「学び直し(大学、大学院在籍時)」を行っている時は、かなりのマイナスです。

 

それより、そのまま会社員を続けていれば給料・ボーナスが貰え、プラスにはなります。

 

この期間(通常は数年)だけの経済的マイナスかプラスかで、合理性を判断するのなら、おそらく日本人の考えは合理的です。

 

しかし、それは長い人生の内の数年間という短いスパンで考えた場合にのみ適用される概念です。

その人の人生をトータルで考えれば、果たして合理的と言えるのでしょうか?

 

合理的な考えをする人の暮らす国が右肩下がりで、非合理な考えをする人の国が発展する、、、なんてことはないはずです。


国や大学の金銭的支援が少ない(ほとんど無い)ということについては、確かに大きな問題としてあります(実際にその為に会社を辞められない、大学、大学院に行けないという人もいるでしょう)。


しかし、そのような「経済的要因」よりも、実は「文化的・社会的要因」の方が割合としては大きいように思うのです。


日本では、


「安定した職に就くこと」=「正義・正解」

 

「学校を卒業して会社員になり定年まで勤める」=「正義・正解」

 

「会社員になって家庭を持つ」=「正義・正解」

 

「転職して年収アップ」=「正義・正解」


といった文化や社会的な評価、目、感覚などがあり、それに抗えない、もしくは「学びたい」気持ちが勝てない、、、ということがあると思います。


これを文化とか社会とか呼ぶかは別にして、このようなことは時代や世代が変わったからと言って簡単には変えられませんし、変わりません(Z世代は考えが違う、、、などというのはナンセンスだと思っています)。


また、日本では、学校制度や環境について大学側が決めて変更できることは非常にかぎられており、殆ど国が決定し、それを全大学に適用します。

国に異論を唱えると、補助金助成金などが削られるという露骨な嫌がらせを受けたりします。国民が納めた税金であるにも関わらず、国のお金として、政府、省庁、官僚が江戸時代の悪代官のように振舞います。


この国の「正義・正解」が変わらないかぎり、会社を辞めて修士・博士課程に行く人は増えないと思うのです。


個人の時代、個性が大事、学び直し、、、などといくらメディアが煽ったところで、日本の文化・社会は変わりません

 

「学び」も当然変わりません。学校制度や学校の運営、内容自体を変えられないのですから、、、、


起業については何度か記しましたが、これも同じですね?

 

アメリでスタートアップする人が多いのは、何度でもやり直すチャンスがあるからです、日本では起業して失敗した人に再びチャンスがめぐってくることはほとんどありません


では、この国のそういった文化・社会を変え” 会社を辞めて修士・博士課程に行く人を増やす ” にはどうすればいいか?


単純に数を増やしたいだけなら、「学びたい人へのベーシックインカムなども一つの手でしょうが、根本的には日本人の「正義・正解」が一度崩壊して、ゼロから作り直す機会に期待するくらいしかないかもしれませんね?


今回、このようなことを考えるきっかけは、ニュースでみた

 

TSMC幹部ははっきり答えた。「日本人は想定より働かないが、博士号を取得できる学生なら違うはずだ。積極的に受け入れるルートを広く築きたい」”

 

ということからです。

台湾企業にも日本文化が染みついているのか、、、などと悲しく思いました(TSMSが熊本に工場を作ったことの間接的な影響で、熊大教授システム学専攻が崩壊したと考えているので、その恨みもありますが、、、)。


とにかく、そういうことではなくて、「学びたい人」の「学ぶ気持ち」を無駄にさせたくないということなのです。

” 会社を辞めて修士・博士課程に行く人 ” も、” 大学からそのまま修士・博士課程に行く人も ” 増えてほしいと思っています。


何歳になっても修士・博士課程に行って学べる国になればいいのですが・・・

 

「ホリスティック教育(Holistic Education)というモノ」

今回は、「ホリスティック教育(Holistic Education)というモノ」 ということについて少し考えてみます。

ホリスティック教育(Holistic Education)

教育の世界は、「専門性」「詰め込み」「合理性」「機械的等に対するアンチテーゼとして様々なモノ(考え)があります。


デューイオルセンなどの ” 学校と地域、家庭 ” などの環境や状況を整える考えを筆頭に、コルブ「経験学習」等も見方によってはそのような感覚があると思います。


そういったモノの一つに、「ホリスティック教育(Holistic Education)」もあります。


(「ホリスティック教育(Holistic Education))


個々の人間を全体的に捉え、知識だけでなく、感情、身体、精神、社会的側面などを総合的に育成する教育哲学や教育アプローチ。

学習者の全人格を発展させることを目指し、知識や技能の習得だけでなく、人間関係、自己理解、倫理観、創造性、感性など、多面的な成長を重視。


・全人教育

知識の伝達だけでなく、感情や精神、身体の発達も重要視し、バランスの取れた人間を育てる。


・個別化

学習者一人ひとりの個性やニーズに応じた教育を行う。


・関係性

学習者と教師、学習者同士の人間関係を重視し、コミュニティとしての学びを促進する。


・創造性

創造的な思考や問題解決能力を育む。


・統合

異なる学問分野や経験を結びつけて学びの全体像を理解する。


柔軟で包括的なアプローチを提供。

目的は、学習者が自己実現を果たし、社会に積極的に貢献できるようになること。


ということのようです。


具体的な方略・アプローチとしては、


・プロジェクト学習(PBL)

学習者が関心を持つテーマや問題に対して、実際にプロジェクトを企画・実行することで、実践的な知識とスキルを身につけ、学習が現実世界との関連性を持ち、深い理解が促される。


・体験学習

フィールドワーク、インターンシップ、ボランティア活動など、教室外での実際の経験を通じて学び、理論と実践の統合をはかる。


・協同学習

グループでの協力を通じての学習。学習者は互いに教え合い、助け合いながら問題を解決し、コミュニケーション能力やチームワークを育む。


感情教育

感情の認識と表現、感情のコントロールといった感情面の発達を重視し、感情教育プログラムや心の健康に関するワークショップなどを行う。


・芸術教育

音楽、美術、演劇などの芸術活動を通じて、創造性や感性を養う。芸術活動は自己表現の手段としても非常に重要。


・マインドフルネスと瞑想

マインドフルネスや瞑想の実践を取り入れることで、集中力やストレス管理能力を高め、内面的な平和と自己理解を深める。


・持続可能性教育

環境教育や持続可能な発展に関する教育を通じて、地球環境や社会の持続可能性についての意識を高める。


・全人的評価

テストや試験だけでなく、ポートフォリオ、プロジェクトの発表、自己評価、ピア評価など、多様な評価方法を用いて学習者の成長を総合的に評価する。


・ナラティブ・アプローチ

学習者自身の経験や物語を共有することで、自分の学びや成長を振り返り、自己理解を深める。


確かに、学習者の ” 心 ” の問題は、「教育」においてとても重要な部分であり、「専門性」「合理性」を求める以前に、


” 学習者の学ぶ気持ちが無いと、教育も学習も成立しない ”


という大前提はあります。

そういうことを考える教育者、哲学者、教育研究家などは星の数ほどいて、そういった人たちの一部で、「ホリスティック教育」は支持されていますね?


しかし、「人間」という個々が強烈に複雑な ” 生体 ” において、知識や技能の習得だけでなく、人間関係、自己理解、倫理観、創造性、感性といった「人格形成」が本当に ” 教育 ” できるものだろうか? という疑問はどうしても生まれてきます。


「人間同士だから」とか、「人は一人では生きていけない」などというキャッチコピーにより世に憚る「コミュケーション重視」「コミュ力強化」みたいなトレンドで、何か人や社会は変わったでしょうか?

 

外面的な対応は、確かに繕うことはできるでしょうが、「全人」とか「人格」というモノがその人に占める「精神世界」の部分が大きいとするなら、個々が違い、さらに複雑であるそういった ” 世界を教育して変えていく ”  ことなど可能なのか?

と考えると、どうしてもネガティブにならざるをえません。

 

「つながりの教育」「全体性を目指す教育」である「ホリスティック教育」は、目標を達成したかどうかの評価はありません。

当たり前ですが、評価の出ないモノは評価のしようがありません、、、、


それが  ” 自然科学 ” というコトではなく、” 哲学 ” ” 信仰 ” という分野の意味であるのであれば、ある程度同意できます(宗教的な概念は受け入れられませんが、、、)。

「嫌な人」より「いい人」の方が良いに決まっていますから・・・


精神的な病気に苦しむ人たちへの助けとなる ” 治療 ” としてのホリスティックな方略は若干 ” 自然科学 ” の範疇にあるのかもしれませんが、、、

「フォグ行動モデル(Fogg Behavior Model, FBM)の教育への適用」

今回は、「フォグ行動モデル(Fogg Behavior Model, FBM)の教育への適用」 ということについて少しだけ考えてみます。


主にマーケティングやIT関連、金融業界でよく使われるフレームワークである「フォッグ行動モデル」 ” 教育 ” にも適用しよう、、、という考えがあります。

フォグ行動モデル:Fogg Behavior Model, FBM

(フォグ行動モデル:Fogg Behavior Model, FBM)


スタンフォード大学のB.J.フォッグ(B.J. Fogg)が提唱した、行動を理解し、予測し、デザインするためのフレームワーク

人に行動を起こしてもらうために必要な「動機(モチベーション)」「行動障壁」「トリガー:きっかけ」の3要素の相関関係をまとめたもの。

(B=MAP)

・Behavior(行動)

・Motivation(モチベーション)

・Ability(能力)

・Prompt(きっかけ)


行動(Behavior)が発生するためには、「動機(Motivation)」「能力(Ability)」「プロンプト(Prompt)」の3つの要素が同時に存在する必要がある。


1. 動機(Motivation)

動機は、行動を起こすための内的または外的な欲求や誘因。動機を3つの軸に分類。

・快楽/苦痛(Pleasure/Pain)

直感的かつ即時的な報酬や罰。たとえば、運動することで得られるエンドルフィンの放出(快楽)や、怠けることで感じる罪悪感(苦痛)。

・希望/恐れ(Hope/Fear)

将来的な期待や恐怖。試験に合格する期待(希望)や、失敗する恐れ(恐れ)。

・社会的受容/拒絶(Social Acceptance/Rejection)

社会的な承認や拒絶。友人や家族からの称賛(受容)や、批判(拒絶)。


2.能力(Ability)

能力は、行動を実行するための容易さや困難さを指す。行動が簡単であればあるほど、実行される可能性が高まる。行動を簡単にするための6要素。

・時間

行動に必要な時間。短時間で完了するタスクは実行しやすい。

・お金

行動を実行するための経済的コスト。無料のサービスは利用しやすい。

・身体的努力

行動に必要な身体的エネルギー。リモートでの作業は移動の身体的負担を軽減する。

・精神的努力

行動に必要な精神的エネルギー。分かりやすい説明やシンプルな手順は精神的な負担を軽減する。

・社会的偏見

行動が社会的に受け入れられるかどうか。流行りの行動は実行しやすい。

・非日常性

行動がどれほど日常的であるか、または非日常的であるか。日常的な習慣は実行しやすい。

 

3.プロンプト(Prompt)

プロンプトは、行動を引き起こすためのシグナルやきっかけ。行動を促進するための「きっかけ」として機能。プロンプトを3つの分類。

・スパーク(Spark)

動機を高めるためのプロンプト。鼓舞するメッセージやモチベーショナルビデオ。

ファシリテーター(Facilitator)

能力を高めるためのプロンプト。使いやすいツールやガイドライン

・シグナル(Signal)

行動を思い出させるためのシンプルなリマインダー。カレンダーの通知やアラーム。


ということです。


日本では、” 消費者行動 ” を考える上でよく使われますね?

元々は、PromptではなくてTriggerであって(B=MAT)だったようで、今でも結構(B=MAT)を習慣的(!)に使っているところも多いようです。


さて、この ” フォグ行動モデル ” 「教育」への適用のお話です。

 

「行動」「習慣」というのは、「教育・学習」においても主要なパーツですから、少し流行した考えを適用するというのは誰もが思いつくことです。


(教育・学習分野での適用)


1. 学習者の動機づけ(Motivation)

 

・明確な目標設定

学習の目的やゴールを明確にすることで、学生の希望や達成感を刺激。

・報酬とフィードバック

学習の進捗に対する即時のフィードバックや報酬を提供することで、快楽、苦痛の軸を活用し、学習動機を高める。

・社会的要因

グループ学習やピアレビューを取り入れることで、社会的受容、拒絶の軸を活用し、他者との交流を通じて動機を高める。


2.学習環境の設計(Ability)

 

・アクセスの容易さ

オンライン教材や教育アプリを使いやすく設計し、学生が簡単にアクセスできるようにする。

・時間管理

学習に必要な時間を最適化し、短い時間でも効果的に学習できるようにする。

・サポート提供

チューターやサポートスタッフを配置し、学生が困難に直面したときに迅速に助けを得られるようにする。


3.きっかけの設定(Prompt)

 

・リマインダー

学習の予定や期限を知らせるリマインダーを設定。

・通知とアラート

重要な学習イベントやタスクを通知するシステムを導入。

・学習のシグナル

学習の開始を促すための視覚的・聴覚的なシグナルを設ける。


というような感じです。


このモデル(?)を冷静に考えると、行動を起こしてもらうためには、「動機(モチベーション)」「行動障壁」「トリガー:きっかけ」が必要なのは、至極当たり前のことですね?

 

また、動機づけにおいて、これまで記してきたように迷信的(?)な部分というか、” 内発的動機づけ ” より、” 外発的動機づけ ” を重視(?)している印象があり、そこには好感(?)が持てます、、、。

 

「教育・学習」の文脈においても、様々なデザイン、方略を作る際に、” フォグ行動モデル ” の考えを少しでも取り入れることは効果的なのかもしれません。

 

” フォグ行動モデル ” は直接的な「教育・学習」モデルではなくて、「行動」ということの要因について考えた研究ですが、インストラクショナルデザインを学んだ人がすぐに使いたがる「ARCSモデル」:学習意欲を注意(Attention)、関連性(Relevance)、自信(Confidence)、満足感(Satisfaction)、などよりはずっと本質に近いように感じられます。

「電子黒板を使えばICT教育?」 ~ 野球と教育 ~

今回は、”「電子黒板を使えばICT教育?」~ 野球と教育 ~ ” ということで少し考えてみます。

電子黒板

昔から行われている「授業方略」とは、


・教師が壇上に立ち

・教師がテキストを読みながら

・ポイントとなる部分を ” 黒板 ” に書き

・学習者は ” 黒板 ” に書かれたモノをそのままノートに写す


ですね?


これが ” 授業 ” であり、” 教育 ” だと考えている(思いこんでいる)教育者(と呼ばれる人たち)がほとんどであることは、これまでもずっと記してきました。


ギリシャ時代から行われてきた「知識・情報の伝達・伝承」です。


” 伝達・伝承 ” は、受け取る側(学習者)の ” 選択 ” によって、プラス(学習)になる場合もありますし、ゼロ(無学習)になることもあります。

” One Size Fits All ” で習得させようとする方略は、” All ” に習得させる結果とはなりません。


” 偉い先生 ” が話すコトバ(ほとんどはテキストに書かれていることですが)を聴き、黒板に書かれたポイント(これもほとんどがテキストに書かれていること)をノートにただひたすらに写す


ノーベル賞受賞者の ” 受賞記念講演 ” であるなら、それはそれで十分です。

 

しかし、それは ” 講演 ” であり、決して「教育」ではありません

ほとんどの学校教育や企業内教育を、私が ” ご講演座学 ” と呼んでいる所以です。


「教育」になりえる条件” 野球 ” で例えるなら、


1.(練習で)

・ピッチャー(教える側)がボールを投げる

・バッター(学習者)がボールを打つ


2.(試合で)

・相手チームのピッチャーがボールを投げる

・バッター(学習者)がボールを打ち、ヒット、ホームランになる


ことで成立します。

(練習で)ピッチャー(教える側)が100球投げて、バッターがボールを何球も打って(学習して)、(試合で)ヒット、ホームランにならない限り「教育」という行為は成立しません。

「学習」は、バッターが自分でバッティングセンターに行ってボールを打つことでも当然成立します。

 

こういったことが「教育・学習」だと考えています。


さて、テーマである「電子黒板を使えばICT教育?」です。

 

これまでの ” 黒板 ” にかわって、” 電子黒板 ” というモノを導入して ”ICT教育だ! ” というような事例が学校や国から多く拡散されています。


(電子黒板導入による学習への影響)


・視覚的な学習支援

カラーやグラフィックス、動画などを簡単に表示できるため、視覚的な学習を強化し、複雑な概念やプロセスをより分かりやすく説明できる。


インタラクティブな授業

タッチ操作に対応しており、教師と生徒が共同で問題を解決したり、質問に答えたりすることができ、授業がインタラクティブになり、生徒の参加意欲が高まる。


・即時フィードバック

生徒が問題を解いたり、クイズに答えたりすると、電子黒板を通じて即座にフィードバックを提供でき、生徒は自分の理解度をリアルタイムで確認し、改善点を見つけることができる。


・デジタルリソースの活用

インターネットやデジタル教材へのアクセスが容易になるため、最新の情報や多様な教材を授業に取り入れることができ、学習内容が豊かになり、生徒の興味を引きつけやすくなる。


・個別学習のサポート

生徒一人ひとりの進捗状況を把握しやすくなり、個別の学習ニーズに対応した指導が可能になる。


・コラボレーションの促進

グループワークや共同プロジェクトを行うことで、生徒同士のコラボレーションが促進され、コミュニケーション能力やチームワークのスキルが向上。


だそうです。


教育に対する国の支援(助成金補助金等)が大幅に減らされいるこの国で、学校はエアコンを止めたり(電気代)、壊れたトイレをそのままにしても、 ”ICT教育だ! ” と宣伝したいがために、 ” 電子黒板 ” を導入しています。


「黒板」が「電子黒板」になったからといって、野球で例えたように「教育」には決してなりえませんし、ギリシャ時代から行われてきた「知識・情報の伝達・伝承」以上でもありません。

無意味な ” ご講演座学 ” であることに何の違いもないということに、先生様も学校も国も企業も気づきませんし、気づかないフリをします。


また、電子黒板で思い出すのが、嘗て液晶製品で右肩上がりに業績を伸ばしていた某企業(今は他国の配下)が、iPad の外見を模して何倍にも大きくした電子黒板の原型みたいな ”ビッグ〇ッド ” という製品を出しました。

この製品は企業の会議向けということで開発されたのですが、機能自体は当然iPadに及ぶはずもなく、黒板を電子黒板に変えた現在の学校の状況と同じでした(某企業はそれを境に右肩下がりに、、、)。


とにかく、本質、目的、目標、成果を考えずに何でもかんでも ” デジタル機器 ” を導入すればいいというDX、ICTトレンドの風潮は、遅からず破綻すると思うのです。

「お金があったらバカロレア?」

今回は、「お金があったらバカロレア?」 というテーマで考えてみます。

国際バカロレア:International Baccalaureate、IB

最近はネットのニュースなどでたまに「国際バカロレアというワードを目にする機会もあります。

名前だけはかなり前から知ってはいたのですが、なんとなく興味をひかれなかったため、放置していましたが、とりあえず内容を調べてみました。


(国際バカロレア:International Baccalaureate、IB)


多様な文化の理解と尊重の精神を通じて、より良い、より平和な世界を築くことに貢献する、探究心、知識、思いやりに富んだ若者の育成を目的としている。

学校や政府、国際機関と協力しながら、チャレンジに満ちた国際教育プログラムと厳格な評価の仕組みの開発に取り組んでいる。

スイスに本部を置く国際教育機関が提供する教育プログラム。

当初は、世界各国から人が集まる国際的な機関や外交官の子供が母国での大学進学のため、様々な国の大学入試制度に対応し、1つの国の制度や内容に偏らない世界共通の大学入学資格および成績証明書を与えるプログラムとして開発され、その目的を、より良い平和な世界を築くために貢献する人材育成としており、その教育プログラムの特徴として「全人教育」を掲げている。


・国際的な視点: IBプログラムは多文化理解と国際的な視点を重視しており、生徒が多様な文化や価値観を理解し尊重できるように設計されている。

・探究重視: IBプログラムは探究学習を重視しており、生徒が自ら疑問を持ち、調査し、学ぶ姿勢を養うことを目指している。

・学問のバランス: IBは幅広い教科を学ぶことを奨励しており、言語、社会科学、実験科学、数学、芸術など、複数の分野をカバーしている。

・批判的思考: 生徒が批判的思考や問題解決能力を身につけることを重視しており、これにより複雑な問題に対処する力を養う。

・評価方法: IBの評価は試験だけでなく、エッセイやプロジェクト、内部評価など多様な方法を用いて行われます。これにより、生徒の多面的な能力が評価される。

・言語教育: 多言語教育を重視しており、少なくとも2つの言語で学ぶことが推奨されていて、生徒が多言語でのコミュニケーション能力を向上させることができる。

・グローバルな認知度: IBディプロマは世界中の多くの大学で認知されており、IBプログラムを修了した生徒は国際的な高等教育機関への進学が容易になる。

・CAS(創造性・活動・奉仕): 生徒は学業だけでなく、創造性(Creativity)、活動(Activity)、奉仕(Service)の3つの要素に取り組むことが求められ、全人教育が促進される。

・独立した研究: ディプロマプログラムの一部として、生徒は「拡張エッセイ」と呼ばれる独立した研究プロジェクトを行い、深い学問的探究を経験する。

 

(国際バカロレアプログラムの4段階)


1.プライマリー・イヤーズ・プログラム(PYP)

3~12歳を対象に、精神と身体の両方を発達させることを重視したプログラム。どのような言語でも可能。


2.ミドル・イヤーズ・プログラム(MYP)

11歳~16歳を対象に、これまでの学習と社会のつながりを学ばせるプログラム。どのような言語でも可能。


3.ディプロマ・プログラム(DP)

16歳~19歳を対象に、所定のカリキュラムを2年間履修し、最終試験を経て所定の成績を収めると、国際的に認められる大学入学資格(国際バカロレア資格)が取得可能。原則として、英語、フランス語又はスペイン語で実施。


4. キャリア関連プログラム(CP)

16~19歳を対象に、生涯のキャリア形成に役立つスキルの習得を重視したキャリア教育・職業教育に関連したプログラム。一部科目は、英語、フランス語又はスペイン語で実施。


(学習者像:The IB Learner Profile)価値を置く10の人間性


・探究する人
・知識のある人
・考える人
・コミュニケーションができる人
・信念をもつ人
・心を開く人
・思いやりのある人
・挑戦する人
・バランスのとれた人


(デメリット)


・高い学費とコスト

IBプログラムを提供する学校は一般的に私立校やインターナショナルスクールであり、学費が高額になる。


・学問的な負担

学問的な要求が高いため、生徒にとってストレスやプレッシャーが大きくなることがある。


・特定の学習スタイルに適応が必要

探究重視のアプローチに慣れていない生徒や、特定の教科に特化した学習を好む生徒にとっては、適応が難しいことがある。


・限られた学校数

IBプログラムを提供する学校は限られているため、地域によってはアクセスが難しい場合がある。


・大学入試の認知度の差

一部の国や大学では、IBディプロマの評価が他の大学入試制度と比較して十分に理解されていない。


・課外活動の負担

CAS(創造性・活動・奉仕)などの課外活動が学業と並行して求められるため、時間的な負担が大きくなる。


・言語の壁

英語圏の生徒にとっては、英語での授業や評価が難しい場合がある。


ということのようです。


まぁ、以前興味をもてなかったことは正解かもしれません(?)


リベラルアーツ が注目された関係で、結構語られるのでしょうが、 ” 大多数の一般の人たち ” には、ほとんど関係のない世界ですね?


「教育」というより、以前記した大昔のオックスフォードやケンブリッジのような「紳士育成機関」、もしくは「マナー教室」みたいな感じかもしれません。


元々が、世界中を飛びまわる外交官の子供を対象として作られたモノなので、

・お金はある

・地位はある

・自分で何かを成し遂げなくてもいい

 

といった、富裕層、特権階級、エリートのための仕組みですね?


別に、それは悪いことはありませんし、アメリカに2年いたら次は中国、、その次はイスラエル、、なんていう親を持った子供にとっては、このような仕組みが無いと確かに厳しいですね?


また、王様、貴族、大会社の創業オーナーなどの子供にとっては、将来のポジションが固定されているわけですから、、、、、


ただ、「国際バカロレア」が価値を置く10の人間性のうち

 

・探究する人
・知識のある人

 

というのは、少し焦点がずれているように思います。


「探究」というのは、何でもかんでも手当たり次第に行うものではないし、人間の時間はそれほど長くありません。

 

” 専門性 ” が重要だと思うのです。

1つの「専門分野」で、ここはどうなっているのだろう? なぜこうなるのだろう? ということを追い進めることが「探究」だと思います。


そういう意味では、「国際バカロレアにおいては多言語を話せるようになるかもしれませんが、「専門性」も「深い知識」も付かないように感じられます。

 

私たちが住むところとは、全く別の世界のお話ですね・・・

 

掃いて捨てるほどのお金があるなら、” バカロレアという選択肢はあるとは思います。