louribot’s blog

学習成果の出る企業内教育(教育全体)についての考察を語ります

「ケアレスミス」をなくすには? に固執しなくてもイイ!

今回は、テスト等でのケアレスミスについて考えてみます。


テストで「ケアレスミス」をしたことがない、という人は恐らく皆無ではないかと思います。


それでも、99点を取った子供の親は、

 

ケアレスミスをなくして、次は100点を取れるように!」

 

と子供に言います。


さて、ケアレスミス」をなくすことは可能でしょか

ケアレスミス

教育関連企業アカデミアケアレスミスについて言及することが多いのですが、その説や方略を見てみると、??? となるものも多く、結構いい加減な扱いをされているような気がします。


ということで、ケアレスミス関連の情報を整理してみます。


ケアレスミス

不注意によって起こる間違いのこと。
 
「careless」の意味である「不注意な」「軽率な」のとおり、よく考えればわかるのにうっかり間違えてしまうことや、問題の読み間違いや都合のいい解釈などの勘違い・思い込みによって起こるミスを指す。


ケアレスミスをする原因)


・睡眠不足

十分な睡眠を取っていないと、注意力や集中力が低下し、ミスを犯す可能性が高まる。


・緊張しすぎ

テストに対するプレッシャーや緊張感は、集中力を散漫にし、ミスを引き起こす可能性がある。


・準備不足

テストの内容に対する理解が不十分であると、問題を正しく理解するのに時間がかかり、それがケアレスミスにつながる可能性がある。


・時間管理が苦手

テスト時間内にすべての問題を解くのに必要な時間を見積もるのが苦手な人は、急いで解答するためにミスを犯す可能性がある。


マルチタスク

複数の問題を同時に考えてしまうと、それぞれの問題に対する注意力が散漫になり、ミスを犯す可能性がある。


・自己確認が不足

問題を解いた後で、自分の解答を再確認する時間を取らない人は、初めて見落としたミスを見つける機会を失う。


ケアレスミスを起こす人の傾向)


・たかがケアレスミスと軽く考えている

・体調不良が原因

・知ったかぶりによる慣れ

・時間的余裕がない

・早とちり

・理解不足や記憶違い

・問題文の指示文の読み間違い

・計算間違い


ケアレスミスをなくす方法)


・指差し&小声でつぶやき、写し間違いを防止

・積極法と消去法のセットで答えを選ぶ

・設問の条件に印をつけて確認

・簡単な計算こそ慎重に

・符号は移項直後に慎重に確認

・公式を書き出してから数値を代入

・忘れそうな条件は解答欄付近にメモ

・頭の中だけで考えず、図を描いて考える

・ミスを記録するノートを作る

・人の失敗から学ぶ


といった具合です。


また、本当は何点とれてたか? などと言い出し、


・本当のケアレスミス、完全なケアレスミスで失った得点を計算する。

・得点化することでケアレスミスがなければ、どれくらいの点数があったかが分かる。


といった方略も結構一般的になっています。


確かに、テストの見直しで、理解していることと理解していないことを認知することは必須です。

しかし、それで上記の計算をして、

「99点だったけれど、本当は100点」

とする方が新たなケアレスミスを誘発するようにも思います。

「99点」という結果は変わりません。


また、ケアレスミスが多い人の ”行動から予測” 、、などというわけのわからない理論も出てきます。


・相手の目を見て話さない

・アドバイスを聞こうとしていない

・相手の話にかぶせる

・相手が話す時間は自分が考える時間だと思っている

・字を丁寧に書かない

・指示されたことを後回しにする

・時間に追われ普段から余裕がない

・確認する癖がない

・メモを取らない

・思い込みが強く自信過剰である


もうここまでくると、サイキックとか占いの世界ですね?


テストで「ケアレスミス」は無くならない!


そう開き直った方が逆にいい方向にいくのではないか?

と考えたりもします。


勿論、”まずは知識を正しく習得する”、そうすれば ”見直しの時間もできる” でしょうし、、、、、

 

といったくらいでいいのではないかと思います。


どんなに訓練しようが、気を付けようが「ケアレスミス」はおこります。

気にしない、、ことが最もいい方略ではないでしょうか?

「イエナプラン教育(Jena-Plan)」について ~ やるなら寧ろ大学で ~

今回は、以前紹介したモンテッソーリ教育に近い考え方の「イエナプラン教育(Jena-Plan)」について考えてみます。


モンテッソーリ教育ほど有名ではないですが、ヨーロッパでは熱心に行われている国もあるようです。


(イエナプラン教育)

 

ドイツのイエナ大学のペーター・ペーターゼンによって考案された教育方式。
子供たちが自主性と創造性を育てることに重きを置く点にある。詰め込み教育や一斉授業に頼るのではなく、子供たちが自分で考え、自分で行動することを奨励する。

子供たちが異なる年齢や能力を持つ他の子供たちと共同で学ぶことを重視する。相互理解や協調性を育てるとともに、個々の子供が自分自身のペースで学ぶことを可能にする。

教師が一方的に教えるのではなく、子供たちが自分で問題を解決するために、教師はガイド役として子供たちをサポートする。子供たちが自分の意見を述べ、議論することを奨励する。


ということで、”理想” を語れば、このような教育がいいのだろうとは思います。


(イエナプラン教育の特徴)としては、


・クラスに異年齢がいる

4~6歳・6~9歳・9~12歳の3つのファミリー・グループに分かれて活動。教室はリビングルームと呼ばれ、新学期に子どもたちと担任(グループリーダーで交代はなし)が話し合って模様替えを行う。
グループの構成は、4~6歳・6~9歳・9~12歳からなっているため、子どもたちはクラス内で年少・年中・年長の立場を経験できる。
毎年新学期には年長の子どもが上のグループに進級し、年少の子どもがグループに新しく入ってくる。


・数国理社等の教科がない

教科はなく、「対話・遊び・仕事(学習)・催し」の4つの基本活動が設置されている。

「対話」:メンバーがサークルに座り、さまざまなテーマについて話し合う。特定のテーマを決めずに自由に話合うオープン・サークルや、テーマ学習・観察・報告・作文朗読サークルなどがある。

「仕事」:子どもたちが自分の興味・関心や得意・不得意を考えながら、自分で時間割を作る。

「遊び」:音楽に合わせて感情表現を豊かに表現したり、ゲームや劇作りをしたりする。

「催し」:週の始めの会、一日の終わりの会、年中行事、教員や生徒の誕生日などに行われる。


・ワールドオリエンテーション

理科や社会科の代わりにワールドオリエンテーションを行う。
全校共通テーマをもとに各グループにふさわしいテーマを決める。

・作ること・使うこと
・環境と地形
・年中行事
・技術
・コミュニケーション
・共生
・私の人生

ワールドオリエンテーションは、子どもたちが自分で情報を検索したり、観察・実験・インタビュー調査などをして、プレゼンテーションを行う。


・健常者と障がい者が共に学ぶ

子どもたちの集団をできる限り現実社会に近いものとしてとらえ、障がい者を積極的に受け入れて助け合って学ぶ。


(イエナプラン教育の目的)は、

知識だけでなく、子供たちが自分の能力を最大限に発揮し、社会の一員として責任を持つことができるようになること。

イエナプラン教育

詳しくはわかりませんが、モンテッソーリ教育」と大きく違うのは年齢の異なった生徒が一緒に学ぶというところでしょうか? また、健常者と障がい者が共に学ぶということもありますね?


日本にも「イエナプラン教育」をやっている私立の小学校があるようで、受験対策本なども出ているようですから、需要はあるんだと思います(私立ということで授業料がかなり高額ですね・・・)。

 

モンテッソーリ教育もそれなりに需要があるので、「イエナプラン教育」ももっとメジャーになればさらに増えていくような気もします。


ただ、これはモンテッソーリ教育の時にも記したことですが、対象が4~12歳、つまり「小学生」なわけです。

 

通常、小学校では、その後の学習に必要となる「基礎的な知識内容」を学びます。勿論、モンテッソーリ教育「イエナプラン教育」でもある程度は学ぶのでしょうが、4~12歳の生徒がこういった教育を経験して、本当に「自主性と創造性」を育むことができるのでしょうか?


こういった発想の教育の多くは、大体が中学生になるまでがメインで行われているように思います。

結局、その後の中学、高校、大学というところまで考えられていないのです。(考えられている場合もあるのでしょうが、実際にはそういった教育ではない学校に入りますね?)


学校の最終地点(?)が大学だとすると、こういったある程度自由な教育というのは「大学」で行うべきものではないか? と思うのです。

 

自分にとって自分の興味・関心があるものを「専門」として学び、研究するのは「大学」でこそ行うべきことです。

 

大学の権威ランクや、自分の学習レベルで大学や学科を決めるのではなく、大学に入ってから自分が専門とするモノを学べるということをすることが「教育改革」「大学改革」にならないでしょうか?

 

国公立大の授業料を私立大並みの150万にしろ、、とわけのわからないことを言い出す人もいましたが、本当に教育、学習と言ったことを考える大学の人がいたとしたら、、、、

 

「大学でイエナプラン教育を行う」

 

みたいな発想が出てきてもいいように思うのですが、、、

まだまだ無理そうですね・・・

「リベラルアーツ」と「専門性」について

今回は、”リベラルアーツ「専門性」”ということについて少しだけ考えてみます。


時代によって、

「専門性が大事」

であったり、


リベラルアーツ重視」

とか、


専門性リベラルアーツが必要」

となったりします。


この国でも、

 

高度成長期「専門性」だけがすべてで、

バブル以降の経済衰退期にはリベラルアーツのような総合的な能力が求められる一般総合職優遇、

そして現在は、

”AI に操られないよう”専門性が最優先だが、リベラルアーツが無いとやっていけない」

 

みたいな感じになってきているように思います。

リベラルアーツ

リベラルアーツという概念はかなり曖昧で多くの意味を持つことがあるので、少し整理しておきます。


リベラルアーツ

古代ギリシャやローマ時代から中世のヨーロッパまで続く伝統的な教育課程の一部であり、文学、哲学、数学、自然科学、社会科学など幅広い学問領域をカバーしている。人間の理解、思考、コミュニケーション能力を高めるためのものであり、「自由な人間(liberalis)」を育てるための教育。

 

現代では、リベラルアーツは大学の教育課程の一部として提供されている。特定の専門分野に集中するのではなく、広範な知識を学ぶことを重視。学生は多角的な視点から問題を理解し、批判的思考、コミュニケーション、問題解決のスキルを身につけることができる。

 

実社会の課題解決に必要な総合力。

 

一つの専門分野だけでなく、複数の領域の知識を含めた、社会の課題解決に必要とされる総合力

生きるための力を身に付けるための手法。

 

確かに、生きていく上でリベラルアーツは大切なスキルであり重要な概念であることは間違いありません。

大学の「教養課程」だけでなく、リベラルアーツ」だけを学ぶ学科なども出てきているようですね?

 

リベラルアーツ教育)メリットデメリットは、


(メリット)

 

・広範囲の知識

人文科学、社会科学、自然科学など、様々な分野について学ぶことが求めらる。多角的な視点と広い知識を身につけることができる。


・柔軟な思考力

批判的思考、問題解決、コミュニケーションなどのスキルを養う。どのような職業においても重要なスキルとなる。


・適応能力

様々な問題に対する解決策を見つける能力を養う。変化する世界に対応する能力が身につく。


(デメリット)


・専門性の欠如

広範な学問をカバーしているが、特定の分野について深く学ぶ機会が少なくなる場合がある。


・就職の難易度

技術的な職業や、特定の専門知識を必要とする業界では、リベラルアーツのスキルだけでは難しい場合もある。


・学費

リベラルアーツの学位を取得するためには、高額な学費が必要となる。特に私立のリベラルアーツ大学は、学費が高いことで知られている。


しかし、ここで思うのは、リベラルアーツ教育の配分が大きくなるにつれて「専門性」のレベルが相当下がっているように感じられるのです。


極論を言ってしまえば(いつもですが)、


”大学は専門性を養う場”


であってほしいと思うのです。


リベラルアーツの習得など、社会へ出てからでも全く問題がないのではないかと、、、


それ以前に、

1,2年の教養課程というのが、本当に必要なのか? 

とたまに思ったりもします。

 

修士課程、博士課程に進むことが前提であるなら、それもイイでしょう。しかし、この国の場合、同じ大学の院に進む場合でも、入学金を納めなくてはならないし、授業料も同じように必要です(せめて国公立大学くらいは、すべて無償にするべきだと思うのですが、、、)。


そのため、大部分の人たちは3,4年生の、

「2年間だけ専門分野を学ぶ」

ことになります。

 

そして、会社に入ったらまたリベラルアーツだ!」とか言われて、「リスキリングしろ」などとなります。

 

会社、国を発展させるのであれば、やはり「教育・学習」の分野では、「専門性の追求」こそが必要だと思うのです。


昔、インドの人たちが  ”IT” に関しては非常に優れているという話がありました。なぜ? と思ったこともありましたが、ブラジルやアルゼンチンの人たちが生きていくには  ”サッカー” しかない、ということと同じですね?


あれもこれもできる、、、というのは確かにカッコいい、、、ですが、すべての「専門家」になることは不可能です。


大谷翔平選手”野球”の「専門家」です。
「二刀流」は2つの分野の「専門家」ではなく、「投げる」「受ける」「打つ」「走る」といった”野球”の範疇内ですから、”野球”の「専門家」なわけです。

”野球”だけを懸命に練習したから彼の今のポジションがあるわけですね?


会社でも社会でも、本当の ”プロフェッショナル”、”エキスパート” が必要だと思うのです。

 

メディアに出てくる芸人のような「専門家」を見るたびに、その思いは強くなります。


「人生100年時代」

それは生存している時間が長くなったということです。リタイヤしてから「リベラルアーツ」を学ぶ時間は十分にあると思うのです。

「速読」ができればどんなにいいだろう・・・

今回は、誰もが一度はできるようになりたいと考えるであろう「速読」について考えてみます。


積読 せざるを得ない私などは、今でも時々「速読」ができればどんなにいいだろう? と考えます。


学習独学の書籍などでも、よく「速読」のことが書いてあったりしますが、実際に「速読」をやろうとした人は、結構少ないのではないでしょうか?

 

私は一度やろうと考えたことがあったのですが、調べてみると、


やはり、少し ”怪しい” 感じ


がして、実際には取り組んだはありません。

速読

(速読、速読術(speed reading、rapid reading、fast reading))

 

文章を速く読むための技術あるいは方法を指す。読書速度を向上させ、効率的に大量の書物を読破する技術。

通常の読書速度よりも高速でテキストを読み、情報を吸収する能力または技術のことを指す。速読の目的は、短時間で大量の情報を消化し、理解すること。

 

速読を習得する方法

 

・チャンキング

文字や単語を一つずつ読むのではなく、まとまった単位(チャンク)で読むことを習慣化する。一度に多くの情報を消化することができる。

 

・サブボーカリゼーション(内心読唱)を抑制する

読んでいるときに無意識に唱えてしまう癖を抑えることで、読む速度を上げることができる。

 

・視線の動きを最小限にする

視線をページ上で大きく動かすと読む速度が遅くなるので、最小限に抑えることが重要。

 

・スキップ読み

全ての単語を読むのではなく、重要な単語やフレーズだけを読むことで、大まかな内容を早く理解する技術。

 

・リーディングソフトウェアを使用する

一部のソフトウェアは速読を訓練するための機能を持っている。

 

・毎日練習する

速読のスキルを向上させるためには、毎日の練習が必要。少しずつ読む速度を上げていくことで、自然と速読のスキルが身につく。


(メリット)

 

・時間節約

速読は時間を大幅に節約することができる。一般的な読書速度よりも高速で情報を処理することができるため、短時間で多くの情報を吸収することが可能。

・生産性の向上

速読は、勉強や仕事、一般的な読書など、さまざまなシーンで生産性を向上させることができる。大量の情報を迅速に処理することができるため、効率的に学習や情報収集を行うことができる。

・集中力の向上

速読の練習は、集中力を向上させる効果もある。速読を行う際は、テキストに集中し、自分の視線や思考をコントロールする必要があるため、集中力を鍛えることができる。


(デメリット)

 

・理解度の低下

速読は、高速で情報を処理することに重点を置いているため、深くテキストを理解することが難しくなる場合がある。特に、複雑な内容や新しい情報を学ぶ際には、速読よりもゆっくりと読む方が理解度が高まることがある。

疲労

速読は、一般的な読書よりも高い集中力を必要とするのため、長時間行うと疲労感が大きくなることがある。

・習得に時間がかかる

速読を効果的に行うためには、一定の練習と時間が必要。速読の技術を習得するまでには時間がかかる場合がある。


ということです。


んんん、何か「科学」と「非科学」が入り混じっている感じですね?


速読の考え方自体は古代からあったとのことで、「速読法」として提唱したのはEvelyn Wood という人みたいです。

1950年代に「速読法」を開発し、その後「Evelyn Wood Reading Dynamics」という「速読講座」を全米で展開し、ケネディ大統領やカーター大統領もこの方法で速読トレーニングした、、、とのことです(ほんとかな?)。


まぁ、しかし、冷静に考えてみると、確かに「訓練」によって、読むスピードは若干上がるでしょうし、上がったスピードでも内容が理解できるようになるでしょう、、、

 

私も「教育・学習」関連の勉強のために一か月で数十冊の本を読んでいた頃は、読むスピードが上がったように感じたこともありました。

 

でも、今から考えると、それは自分が「知りたいコト」「知っているコト」について読んでいるからという前提があるように思います。

 

「考えること」を無にして、目だけで文字を追っても仕方がありません。

 

また、私の場合「音読」「内心読唱」しないと、理解が進まないので、、、「速読」はムリな感じです。


多くの論文や書籍を読まなくてはならない人や、受験勉強の参考書やテキストを限られた時間で、、、という人にとって、「速読」はまさに ”夢のスキル” ですね?

 

とはいえ、”怪しい研修” なんかも多そうですし、山のように出ている「速読できる」本を読んでも、結構な訓練が必要なようです。

 

その訓練をする時間がないから、、、と、速く読みたい時が来てから「速読」というモノを考える、、、から、「速読」は普及しないようにも思います。

「信じるも、信じないも、アナタしだいです・・・」

といったモノでしょうか、、、


最後に、学習関連の本で知った「速読方法」で、1つだけやっていることを紹介して終わります。

 ・指を使って読む

読んでいいる文字の横に指をおいて読んでいくという方法です。

これは、スピードも少し上がる気もしますし、集中できるように思います。

「ジャストインタイムティーチング(JiTT)」 について

今回は、「ジャストインタイムティーチング(JiTT)」 について考えてみます。


「ジャストインタイムティーチング(JiTT)」 ”授業の前”「事前の課題」を出すことが一番の特徴です。


これは「宿題」とは違って、予習と知識確認の意味があります。簡単に言うと、


・「ジャストインタイムティーチング(JiTT)」で出される事前課題=診断テストもしくは事前テスト

 

・「宿題」=事後テスト

ということです。

 

では、内容に入っていきます。


(ジャストインタイムティーチング(JiTT))

 

学生と教師の間の相互作用を強化するための教育戦略であり、オンライン学習と対面学習を組み合わせたハイブリッド型の教育方法。

授業前にオンラインで提出する短い課題(通常は数問の問題やエッセイ)を基に、教師がその分析をし、授業を計画・実施する。

教師は学生の理解度や疑問点を「リアルタイム」で把握し、それに応じて「ジャストインタイム」で教材を調整することが可能となる。


LMS(でなくてもメールでも可能)で、”事前課題” を出し、その内容を教える側が分析してから、実際の授業を行うということです。

そして、その授業というのが、まずは ”事前課題” の回答に対するフィードバック、そして補足があればその内容についての講義、、、となります。

ジャストインタイムティーチング(JiTT)

ジャストインタイムティーチング(JiTT)やり方の例としては、


・オンライン課題の設定

教師は次の授業で扱う予定のトピックについて、学生が授業前に解くべきオンライン課題を設定。課題は、短いエッセイ形式の問いや、選択肢から最適な解答を選ぶ形式の問題など、さまざまな形で出題することが可能。


・学生の回答と自己評価

学生は授業前にオンライン課題を解き、自分の理解度を自己評価。これにより、学生自身が自分の理解度を把握し、必要な学習を行う機会を得ることができる。


・教師による課題のレビュー

教師は授業前に学生の回答をレビューし、学生が理解している内容、理解できていない内容、または誤解している内容を把握。


・授業内容の調整

教師はレビューの結果をもとに、授業内容を調整。例えば、多くの学生が特定のトピックを理解できていない場合、そのトピックについて詳しく説明する時間を設ける。


・授業の実施

教師は調整した授業内容に基づき、授業を実施。授業中には、課題の回答に基づくディスカッションを行う時間を設けることも可能。

 

「ジャストインタイムティーチング(JiTT)」メリットデメリットは、


(メリット)

 

・学生の理解度の把握

教師は学生が理解している内容や理解できていない内容をすぐに把握することができる。


・授業の柔軟性

教師は学生の理解度や興味に応じて、授業内容や進行を調整することができる。


・学生の参加促進

この手法は学生の積極的な参加を促し、自己学習や批判的思考のスキルを向上させることができる。


・フィードバックの迅速化

学生は授業前の課題を通じて、自分の理解度を確認し、必要なフィードバックをすぐに得ることができる。


(デメリット)


・時間管理

教師が学生のフィードバックを得て授業を調整するためには、時間を十分に確保する必要がある。授業の直前に学生からのフィードバックを確認し、それに基づいて授業内容を調整するため、教師の負担が増える可能性がある。


・学生の参加

すべての学生がオンライン課題を定期的に完了するわけではないため、一部の学生のフィードバックしか得られない可能性がある。その結果、授業全体のニーズを完全に反映するのが難しい場合がある。


・テクノロジーの問題

オンライン課題を活用するため、インターネット接続や技術的な問題が生じる可能性がある。また、すべての学生が適切な技術的リソースを持っていない場合、一部の学生が不利になる可能性がある。


・学生の負担

学生は授業前にオンライン課題を完了するための時間とエネルギーを必要とします。これにより学生の負担が増える可能性がある。


といった感じです。


どうでしょう? これで完璧な授業ができるわけではないですが、通常行われている

「ご講演座学」の授業 + 宿題

よりはいいように思わないでしょうか?


学校や企業の教育において、最も重要なのは、


”事前の学習を主にすること”


だと思っています。

 

本当は、ミネルバ大学がやってるように事前課題をやっていないと授業に参加できない、、、という風にすべきですが、すべての環境がそれをやることは難しいですね?

また、ジャストインタイムティーチング(JiTT)には「事後テスト」を行わない場合が多いようで、これは改善すべき点ですね(やってる場合もあるのでしょうが、、、)。

ミネルバ大学は授業終わりにその評価が出ますね、、、凄すぎる、、


まぁ、ある意味、エリート校ならできそうな、、、、と考える人も多いと思います。

 

しかし、学習者のレベルを把握し、クラスの中でグループ分けして、そのグループにあった学習内容方略を適用できるようになるのではないかと思うのです。


「ずっと「ご講演座学」の授業をやってきたから、そんな面倒なことはやりたくない」


「知識を習得させることが最重要事項ではない」


とか、考える「教える側」の人たちは、「教える側」を降りるべきですね?


学習内容は教師や教育担当者が変えられるものではないでしょうが、”方略” を変えても問題ないのではないでしょうか?


”アクティブラーニング” が流行った頃には、みんなグループワークとかやってたじゃないですか、、、、


授業というのは、わからないところをわかるようにしてもらう機会だと思っています。

自分で学習して、理解できない部分を「教える側の人」に訊ねて、自分で答えが出せるようになる、、、、

それが「教育」だと思うのです、、、

「デジタルネイティブ(digital native)」と「デジタルイミグラント(digital immigrant)」再考

今回は、マーク・プレンスキー(Marc Prensky)が発案したとされるデジタルネイティブ「デジタルイミグラント」” ということについて少し再考してみます。


デジタルネイティブ「デジタルイミグラント」でどちらが優れているかとか、どちらがいいか? みたいなことがよく語られますが、そんなことは時代の話なのでどちらでもよくて、優劣を決めても仕方がないことです。


学習のスタイル、分野や、その傾向などについて考えてみます。


因みに、「デジタルイミグラント」古い時代の人たちだから、、みたいなイメージがありますが、一概にそうではありません(と、自己肯定?)としておきます。


デジタルネイティブ

生まれたときからデジタル技術に囲まれて育った世代のことで、インターネットやスマートフォンタブレット、パソコンなどのデジタルデバイスを自在に操る能力を持つとされている。


(デジタルイミグラント)

IT普及以前のアナログ環境に生まれ、学習によって後天的にデジタル環境に合わせてきた世代。 「デジタル移民」や「デジタル入植者」と呼ばれる場合もある。人生の途中からインターネットのある世界に移り住んだイメージ。

デジタルネイティブ デジタルイミグラン

まず、学習のスタイルについて考えてると、


デジタルネイティブの学習スタイル」は、


・自由度

自分の興味のある分野を自由に学ぶことができ、自己啓発のための多くのリソースにアクセスすることができる。


・柔軟性

時間や場所に縛られずに学習が可能で、自分のペースで学ぶことができる。


・広範囲の情報

インターネット上には膨大な量の情報があり、その全てが学習リソースとなり得る。


インタラクティブな学習

オンラインでは対話形式の学習やゲーム形式の学習が可能で、学習体験をより楽しみながら行うことができる。


・情報過多

情報が溢れているため、どの情報が信頼できるのかを見極めるスキルが必要。


・自己管理能力

自分のペースで学習するため、自己管理能力が求められる。これが不足していると学習が進まないこともある。


・社会的スキルの欠如

全てをデジタルで行うため、対人スキルやコミュニケーション能力が育たない可能性がある。


・デジタルデバイスへの依存

デジタルデバイスに過度に依存すると、健康問題や生活習慣の乱れなどの問題が生じる可能性がある。


といった特徴があるといわれています。


では、「デジタルイミグラント」は?

というと、


生まれた頃にはネット環境も、中学生レベルのAI(ChatGPT)もなく、対面の学校・塾の授業、紙の書籍、参考書、、、などで学び、次第にパソコンやインターネットを使用するようになった、、


という感じです。


「デジタルイミグラント」は、デジタル以前の人たちということではありませんし、デジタルの発展、進化とともに生きてきた人たちです。

 

勿論、中にはデジタルに興味が無い、ついていけなかったという人もいるでしょう?

そういう人のことは何と言うのかわかりませんが、「デジタルフュージティブ(digital fugitive)」とでも、、、言っておきましょう ???

 

因みに、その前の世代は「デジタル・エイリアン(digital alian)」だそうです・・・(ひどい話ですね?)


「デジタルフュージティブ(?)」は置いておいて、デジタルネイティブ「デジタルイミグラント」の学習スタイルには差があり、学習内容や習得となるとそれぞれ一長一短もあり、どちらがどうと簡単には言えない状況です。


また、ここで、最も顕著なデジタルと学習の関係で言えば、


デジタルネイティブスマートフォンがメインツール

「デジタルイミグラント」「パソコン&紙」がメインツール

 

ということです。


デジタルネイティブ」=「パソコン」と考える人もいるでしょうが、これは大きな誤解です。


「パソコン」をツールとして学習、情報検索使用する頻度は、圧倒的に「デジタルイミグラント」の方が多いですね?


デジタルネイティブは殆どスマートフォンで完結させようとしますし、実際に完結することも多いです。


スマホで何でも、、、というのは「デジタルイミグラント」には難しいものがあります。

 

パソコンの電源を入れて、コーヒーでも飲んで、、でとなり、それさえ面倒な人は、紙のテキストを探す方がということも多いでしょう。

ということで、” 情報” へのアクセススピードは、明らかにデジタルネイティブの人たちに分があります。


しかし、アクセススピードが速いと言っても、そのネットの情報はすべてが ”真” ではないため、というより、”偽” の方が明らかに多い中で、情報を精査するというロスが発生してしまいます。

 

紙の専門書、教科書、参考書にも誤った情報が含まれることもありますが、ネットの情報に比べれば、ほぼ ”真” といってもいいくらいのレベルでしょう?

紙の情報とネットの情報をミックスして使用する「デジタルイミグラント」の方が先にゴールにたどり着く、、という場合もあるでしょう。


また、

 

デジタルネイティブ」=「プログラミング」

 

という概念も違います

 

国の方針によって学校で「プログラミング教育」が行われるようになって、デジタルネイティブは誰もが「プログラミング」できるように思うのでしょうが、強制的にやられていることや、目標のない教育であるため、「プログラミング」ができる割合は実は多くありませ。また、スマホで「プログラミング」をやるのは面倒だという要因もありますね?


一方、「デジタルイミグラント」は、パソコンが普及し、そういった関連の企業や仕事が多くなった世代ですから、あくまで仕事においてですが、実は「プログラミング」ができる人は多いです。とはいっても、仕事で「プログラミング」をやるわけですから、クリエイティブなことや新たな発想ができる人は少ないです? 技術はあるが、それは業務のためということです。

 

「学習の分野」もかなり違ってきているように思います。


デジタルネイティブ」=「範囲の広い分野、最新分野の学習」が得意

「デジタルイミグラント」=「確実(古典的)な知識の学習」が得意


のような傾向があるのではないでしょうか?

日々、新しい情報が垂れ流されるので、その中で興味を持つという人も多いでしょうからね、、、


ということで、デジタルネイティブ「デジタルイミグラント」の学習スタイルや傾向、分野について考えてきましたが、特に結論ということはありません。こういったことになっているのではないでしょうか? というだけのことです。


最後に、”最強の学習” についての ”提言” です。

 

これだけデジタルが一般的、というよりベースになった世界も、ある程度旧来の紙のテキストを併用することデジタルネイティブにできれば、”最強” になるかもしれません(実際にできる人は既にいますね)。


前にも記しましたが、”専門的な分野” になると容易にネットでは見つからないこともまだまだ多く、高価な専門書を購入しないといけない、、、なんていう ” 中途半端な時代” です。


確実な”真””偽”を AI が判別して、限りなく”真”が残り、専門的な内容もすべてネットに載るような世界になれば、、、と思います。

 

その頃には、デジタルネイティブ」「デジタルイミグラント」などというコトバは消えているでしょう。

「人材育成」というモノ ~ そんなに大きく振りかぶらないでも ~

今回は、”「人材育成」というモノ”について考えてみます。


以前、日本e-Learning大賞 とかいう催しに教育の概要を出したところ「人材育成特別部門賞」なんていうものを貰ったことがありますが、、、


「人材育成」って、、、非常に曖昧過ぎる概念ですね?


一応調べてみると、

人材育成

(人材育成)


企業が業績を上げて経営目標を達成するために、従業員に必要な知識やスキルの習得を促すこと。

職種や役職・入社年数などで対象者を分け、研修などを通して一律のスキル習得を目指します。

社員を経営戦略の実現に貢献し、会社の利益を生む人材に育てること

必須3要素

「コミュニケーション」、「協働の意欲」、「共通の目標」


人材育成で大切なこと

 ・目的を明確にする
 ・目標を設定する
 ・スキルの可視化を行う
 ・期日を決める
 ・自主性・自発性を養う
 ・モチベーションを管理する
 ・育成担当者のスキルを高める
 ・人材育成に関する制度を整える


育成内容


・技術的スキルの教育

特定の役職や業務に必要な技術的スキルの教育が重要。コンピューターの使用方法、特定のソフトウェアの操作方法、業界固有のツールの使用方法などが含まれる。


・リーダーシップとマネージメントスキルの育成

リーダーシップスキルとマネージメントスキルは、チームを指導し、適切に業務を管理するために必要。これらのスキルを育成することで、従業員はより高いレベルの職務に昇進する準備ができる。


・コミュニケーションスキルの強化

効果的なコミュニケーションは、企業内での協力と生産性を高める。従業員が他のチームメンバーやマネージャー、クライアントと効果的にコミュニケーションを取るためのスキルを強化することが重要。


・継続的な学習と成長の機会

企業の環境は絶えず変化しているため、従業員が新しいスキルを学び、既存のスキルを更新する機会を提供することが重要。


・個々の従業員のニーズと目標を理解する

すべての従業員が同じスキルや知識を必要とするわけではない。個々の従業員のキャリア目標や学習スタイルを理解し、それに基づいて個別の育成計画を作成することが重要。


・フィードバックと評価

従業員のパフォーマンスを定期的に評価し、フィードバックを提供することで、従業員が自身の強みと弱点を理解し、改善のための具体的なアクションをとることができる。


ということです。

 

要は、会社を大きくする、継続させるために従業員を教育しましょう、というコトですよね?

 

資本主義の世界では、まっとうな考えで、その方法や手法を書かれた「ビジネス書」が常にベストセラーになるはずです。


本来は「教育・学習」の文脈で語られることなのでしょうが、経営学と勘違いする人が非常に多いですね?


経営学は、


企業活動の原理や構造、またその合理的な管理方法などを研究する学問


であり、もちろんその中には ”人(従業員)”が含まれますから、「マネジメント」「人材育成」などということを入れたがります。


日本でも世界でも、これまでに何人もの「経営の神様」が現れ、その人たちの精神論みたいなことを書いた本が売れました。


そういった本を何冊か読んでみたことがありますが、たたき上げの成功者物語であり、

 ・時代

 ・偶然の悪戯

 ・タイミング

 ・人との出会い

がほとんどを占め、

最後には、


「自分に正直に・・・」

とか

「他人にやさしく・・・」

みたいな感じですね?


また、以前、誰かが

ドラッカーアメリカの経営学では学ばれない、単なる哲学・・」

のようなことを書いていましたが、、、、、


つまり、「経営者」と「経営学者」の副業(?)みたいな感じで広まっていったのが「人材育成」だと思っています。


・たまたま経営に成功した人

経営学と違うことで成功した人

・アカデミアの先生

の理論をもとにしているモノがほとんどではないでしょうか?


実際に、「人材育成で成果が出た」、、、と宣伝する会社は多いですが、


・具体的にどのような育成成果があったのか? 

・育成できた知識・スキルの数値的レベルは? 

・マネジメントや組織改革が売り上げ上昇に果たした因果は?


など、全く無いですね?


「人材育成できた」=「業績が上がった」


という、言ったもの勝ちの世界ですね。

 

理論としても、”浮世離れしたモノ” が多く、


(人材育成理論の弱点)


・実践的な知識と理論的な知識の乖離

企業の人材育成には実践的な知識とスキルが必要だが理論や提言は、実際のビジネス環境や職場の現状を反映していない場合が多い。


・現場のニーズの理解不足

企業の具体的な課題やニーズを十分に理解していない場合が多く、企業の現状や目指すべき目標に合致していない場合が多い。


・柔軟性の欠如

理論は堅苦しく、古典的な教育方法に固執する傾向がある。現代の企業が変化の速い環境で生き残るためには、新しいアプローチや創造的な思考が求められる。


・長期的な視点と短期的な視点の違い

理論は長期的な視点で考えられるが、企業は短期的な結果を求められることが多い。この視点の違いが適用を難しくする。


・フィードバックの欠如

理論は一方的であり、その結果がどのように企業の実績に影響を及ぼすかを評価する機会が少ない可能性がある。効果的な改善策を見つけるのが難しくなる場合がある。

 

「人材育成」とか大きく振りかぶらず、「教育・学習」を確実にすればいいだけのことだと常々思うのです。

21世紀の今、「コミュニケーション能力」は「知識習得」の学習にどれほど影響するのか?

今回は、” 21世紀の今、「コミュニケーション能力」は「知識習得」の学習にどれほど影響するのか? ” ということについて少し考えてみます。


”どのように” ではなく、”大体どれくらい ” ということです。”どのように” については、アカデミアにまかせておきましょう。


コミュニケーション能力が、知識習得の学習に影響を与えるということは、一般的に正論とされているようです。


これは ”どのように”、”なぜ?”です。

コミュケーション能力

・明確なコミュニケーション

適切なコミュニケーション能力があると、情報や知識を受け取る際に誤解や混乱を避けることができる。これにより、習得したい知識をより正確に理解することができる。


・アクティブラーニング

 他人とのコミュニケーションを通じて、新しい視点やアイデアを得ることができる。これは、知識を深め、新たな情報を統合するのに役立つ。


・問い合わせる能力

知識を習得するためには、自分が理解できていない事柄や疑問点について質問する能力が必要。これはコミュニケーション能力の一部であり、これにより学習過程が向上する。


・フィードバックの利用

効果的なコミュニケーションにはフィードバックが不可欠であり、これは学習においても同様。他人からのフィードバックを理解し利用する能力は、知識の習得を助ける。


・コラボラティブラーニング

知識を習得するための一つの方法は、他人と協力して学ぶことがある。これには強いコミュニケーション能力が必要であり、共同作業を通じて多くの知識を習得することができる。


というようなことですね。


また、デメリットとしては、


・情報過多

良好なコミュニケーション能力を持つ人は、多くの情報を得ることができるが、その一方で情報過多になり、重要な情報を見落としたり、混乱を招く可能性もある。


・時間の浪費

コミュニケーション能力が高い人は、他人との交流を楽しむ傾向がある。しかし、これが過度になると、本来学習に費やすべき時間がコミュニケーションに取られてしまう可能性がある。


・他人の意見に依存しすぎる

コミュニケーション能力が高いと、他人の意見や視点を理解しやすいが、それに依存しすぎて自分自身の考えを持つことが難しくなる場合もある。


・プライバシーの侵害

コミュニケーション能力が高い人は、他人から信頼されやすく、多くの情報を共有されることがある。しかし、これは他人のプライバシーを侵害する可能性もある。


・誤解を生む可能性

言葉をうまく使う能力があると、意図しない誤解を生む可能性もある。自分が伝えたいことと受け取られる内容が異なる場合、これは混乱や問題を引き起こす可能性がある。


要は、面倒なことや、やりたくもないことに巻き込まれたりすることも多々あるということですね?


さて、そこでテーマである、


”21世紀の今、「コミュニケーション能力」は「知識習得」の学習にどれほど影響するのか?”


ということです。

前にも記しましたが、「コミュニケーション能力」 ”21世紀型スキル” にも含まれますが、


「仕事の方法」

に関する内容で、コラボレーション(チームワーク)とともに定義されています。

 

”「知識習得」の学習”とは関係なく、実際にチーム等で仕事を行う時に「コミュニケーション能力」は必要ですよ、、、と言っているわけで、それは当たり前ですね。


しかし、主に自分1人で行う ”「知識習得」の学習” に、どれくらい「コミュニケーション能力」が必要かというと、

 

21世紀になってからは、

20世紀と比べて非常に割合が下がっているように感じます。

 

わからないことがあれば、スマホやPCで検索すれば大概のことは載っています。ネットが無い時代には、学校で教師をつかまえて訊ねたり、塾の講師に聞いたり、参考書、関連資料を調べて、、、ということをやっていましたね。


勿論、今でもそういったことをやっている人もいるでしょうが、 ”タイパ” みたいなコトバがトレンド化するスピード重視の時代です。

 

殆どの人がネットで調べるでしょう?

そうなると、そこに教師、講師、友達、親、、などとコミュニケーションを取る必要はないわけです。


「アクティブラーニング、PBL、、、、などでは必要でしょ?」

 

確かに、そうですね。

しかし、個人的には今の時代、”グループで学習する必要性” には疑問を抱いています

先に記したように、ネットで大概のことは調べられます。


それをわざわざグループで他人の意見、知識を吟味するということに重要性はあるのか? と思うわけです。


まぁ、そうはいっても、そういうコトがすべてムダだと考えているわけではありません。どこでどう学習できるかを限定することはできません。

ただ、21世紀に入って、間違いなく


「知識習得」の学習における、「コミュニケーション能力」の必要性は、割合が下がっているように思うのです。


AIとのチャットで「コミュニケーション能力」はあまり必要ではないですよね?

「先生のプライド」について ~ 先に生まれただけなのに ~

新学期が始まり、毎年のように「教える人の愚痴」SNSで山のように湧いているので、「先生のプライド」について考えてみます。


「先生」と書きましたが、小中高の教諭大学の教授などの「教える人」の総称と思ってください。


こういった職種の人たちは、医者政治家弁護士などと同じように、


「先生」

と呼ばれます。


英語だと「Teacher」ですが、「〇× Teacher」とは呼びませんよね?

普通に、「Mr.〇×」とか、ファーストネームで呼ぶことも多いように思います。

 

まぁ、逆に教授には「Professor」医者Ph.Dを持ってる人には「Doctor」をつけるので、文化の違いといえばそうなのですが、、、


この国は明治、いや江戸時代から令和の現在まで、

 

「教える人」=「先生」

 

であり、小中校では「先生」「先生」「先生」、、、

 

大学でも「教授」にはさすがに「〇△教授」と呼びますが、准教授講師などには「先生」を使いますね、、、

 

そして、たちの悪いことに、「教える人」たち同士でも

 

「〇◇先生の論文は、、、」

とか、

「△×先生、、部活指導お願いしますね、、」

のように「先生」と呼び合う気持ちの悪い状況です。


その昔、「先に生まれただけの僕」というドラマがあり、このドラマの意図したように「先生」というのが「先に生まれた人」という意味で使っているのであれば全く問題はないようにも思うのですが、、、、

先生

話しはまたも逸れますが、このドラマの中でインストラクショナルデザインの本がちらっと映り、インストラクショナルデザイン」がバズったことがありました(それに便乗できるアクティブな人たちがいなかったため、一瞬の瞬きで終わってしまいましたが、、、)。


しかし、現在、過去、未来(?)「先生」として使われるのは、


「先に生まれた人」


ではなく、


「尊敬する恩師」とか、「偉い人への敬称」


となっていますね。


学校で「〇×先生」と呼ばれ続け、やがて下らない ”プライド” が生まれてくるわけです。

会社での役職と同じですね? 課長部長に昇進した途端、昨日まで言ってたこととまるっきり逆のことを独裁的にやりだしたり、天狗になる人がいます。

 

昔は、

「役職が人を作る」

などと言われ、「管理職」になると未熟な人でも「役職」に似合った言動をとるようになり、成長する、、、みたいなコトを信じる人もいましたが、、


「先生」「先生」と呼ばれているうちに、


「自分は生徒・学生よりも偉いんだ」

「知らないことを、教えてやってる・・・」

「どうでもいいことを訊いてくるな・・・」


みたいになります。

 

そうなると、もはや「教育・学習」が何たるか? などは考えませんし、学ぼうともしません。


いくら巷で「学習者主体」とか「アクティブラーニング」とか言われても、


「自分が先生」


という ”プライド” ”マインド” から全否定していきます。


そして、永遠に「ご講演座学」をやって自己満足するわけです。

 

自分の方法が最善であると信じ込んでしまい、生徒、学生や他の教育者からのフィードバックも無視し、

KKD(「経験」、「勘」、「度胸」)

で、「先生のプライド」を守ろうとするわけです。

こういったプライドを持ってしまった「先生」は永遠に変わりません。

教頭になり、校長になっても変わりません。


”学校というシステム”「構造」が変わらない狭い世界で生涯生きていくわけです。

 

その「構造」が変われば、「先生のプライド」は崩壊するでしょうが、現状では難しいですね?


この国の「先生」という概念が大きく変わればいいのですが、それよりもう「先生」と呼ばせたり、呼び合うのをやめた方がいいと思うのですが、、、

「答えをみてもいい!」という方略

今回は、学習方略としての ”「答えをみてもいい!」” ということについて考えてみます。


”完全習得学習” を実施する中で、"テストに満点合格しない" と次の学習に進めないという ”方略” があります。

 

これは正当過ぎるやり方で、公文式「カーンアカデミー」もこの方略をとっています。


ところが、どうやっても ”満点合格できない人” がでてくる場合があります。

何度も学びなおし、テストを受けても ”満点” が取れない、、、

さて、こういう場合、どうすればいいでしょう?


実際にこういう状況を経験された方も多いかもしれません。私自身も、以前研修の中で担当したことがあります(といっても、自分でデザインした方略のサポートを依頼されただけですが)。


「自学→テスト合格→次の自学」 という、TOTE-Model で研修をデザインしたのですが、

1人の方が、途中のテストで何度やっても8割、9割しか取れず、進捗がどんどん遅れて行きました。


研修のスケジュール的にこのままでは間に合わないと判断し、

答えをみてもいい方略

いつもアドバイスを頂いていた平岡先生(当時は熊大、現在は放送大)に相談しました。


平岡先生からのアドバイスは、

 

「では、採点する前に、”答え” を見てもいい、ということにしたらどうでしょう?」

 

ということでした。

 

「答えを見て、、、ですか?」

 

と、すぐには賛同できませんでしたが、


「人と状況によりますが、それである程度 ”切り替え”られる場合もありますし、スケジュールを考えると、今のままやっていると、その人だけが期間中にすべての内容を学習できないリスクがありますね?」


確かに、、、

確かに、その通りです、、、。

 

平岡先生のおっしゃることは、、、的確で、疑問を挟む余地はありませんでした

 

この方略を行うポイントは、

 

”最初から答えを見るのではなく、まずは自分で回答を作成した上で答えを見る”

 

ということです。


それ以降、こういった場合の助言をもとめられた場合、私自身も

「答えをみてもいい!」

という ”方略 ”を薦めることが何度かありました。


大学のテストで、”辞書持ち込み可”とかありますよね?

これとは ”本質” が違います。

この場合は、大概、単語が重要なのではなくて、例えば全文を読んで、その内容が示していることとか、自身の感想などを問うので、「学習目標」が違うということです。


「答えをみてもいい!」方略は、


”本来は学習して習得しないといけない内容ではあるが、その内容を習得できるメリットよりも、全体としてスケジュールが遅れ他の習得すべき単元にたどり着けないデメリット解消を優先”


したということです。


「教えない教育」

といつも言っているのに、

「矛盾していないか?」

と、言われれば、確かに矛盾しています。

 

本来は、すべてを確実に”完全習得”すべきですし、”教える=答えをみてもいい”というのは邪道です。

しかし、

人と、場合と、状況と、環境によって方略を変えていくというのも必要です。

 

学習方略のデザインは、


”こうでなくてはならない”


ということではなくて、


”よりベターな方を選択する”


ことが重要です。

要は ”柔軟な考え” フレキシブルに対応できるかどうかです。


「教育・学習」理論を学ぶ人の中にも、”柔軟な考え” をできない人を多く見てきました。

というより、平岡先生のようにフレキシブルに思考を組み立て直せる人はアカデミアにもほとんどいませんね?