louribot’s blog

学習成果の出る企業内教育(教育全体)についての考察を語ります

「惰性」で続けることの正義

今回は、 ” 「惰性」で続けることの正義 ”  というテーマで少しだけ考えてみます。

 

” 「惰性」で続けることの正義 ” 



「習慣」はイイ  ”

「惰性」はダメ  ”


となんとなく思っている人は多いと思います。


「だらだらやるならヤメテしまえ!」

「惰性でやるな!」

「モチベーションが大事」


「惰性」というコトバは一般的にネガティブなイメージで捉えられますが、教育・学習という行為においては、それほどダメなことではないように思ったりもします。


(習慣)


自動化された行動の仕組み

習慣は比較的中立的な概念

「なぜやるのか」を意識しなくても行動が再現される

習慣には方向性が含まれていない


(惰性)


それまでの流れによって続いている状態

物理学の「慣性」から来た言葉

本来は、今まで続いていたから続いているという意味

習慣よりも「継続の勢い」に焦点が当たっている

 

(教育・学習を「惰性」で続けること)


・「主体性」 → 「習慣」 → 「惰性」 という形態をとることが多い

・一般にはあまり肯定的に語られない

・「常に高いモチベーションで学び続けている」のではなく、「やる気がなくても続けられる状態」を作ることは重要


(メリット)


・モチベーションへの依存を減らせる


「やる気が出たら勉強する」というスタイルは不安定であり、自動化された学習を行うことができる

意志力の消耗を減らすことができる

「勉強したいから勉強する」ではなく、「勉強するのが当たり前だから勉強する」という状態で


・学習の総量を確保できる


総学習量を大きくすることができる

「何もしない日」を減らす効果


・理解の深化には時間が必要


学習には「寝かせる」過程があり、今日理解できなかったことが後日理解できることがある

学習との接触を続けていると、知識が繰り返し活性化され、徐々に知識同士のネットワークが形成される

認知構造が変化する


・アイデンティティ形成につながる


継続的な行動は、「私は勉強する人間だ」という自己認識を生む

行動が安定する


・惰性は創造性の土台になる


創造的な成果の大部分は膨大な基礎知識の上に成立するため、続けることで、知識の蓄積が起こる

創造性は惰性の反対側にあるのではなく、しばしば惰性による蓄積の上に生まれる


といった感じです。


学習者が常に主体的であり、モチベーションを維持できるなどということはありませんし、「継続」においては「惰性」が重要だと思います。


人は「疲れ」「嫌になり」「面倒くさくなり」「やめたがり」ます。


やめてしまえば、そこでお終いだということはカリスマ経営者に言われなくても誰もがわかっています。


勿論、” 確実に必要のないことを「惰性」で続ける ” 必要はありませんが、それがわからないのであれば、「惰性」で続ける必要もあると思いますし、それが学習になります。


” 「惰性」で続けること ” は結構な ” 正義 ” です。


教える側の人は学習者の「惰性」を嫌いますが、その意識は変えるべきだと思います。


勉強でもスポーツでも仕事でも、「惰性」の重要性がもっと語られるべきではないでしょうか・・・


「マインドではなく行動」


などと言うにも係らず、「惰性は嫌う」というのは、人がもともと持って生まれた考えではないように思うのですが・・・

 

「勉強しなさいと言ってはいけない」論

今回は、 ” 「勉強しなさいと言ってはいけない」論 ” というテーマで考えてみます。

 

「勉強しなさいと言ってはいけない」論



親が子供に、「勉強しなさい」と言ってはいけない、、、ということが常識のようになって長い年月がたちます。


これまで何度もそれぞれの波がきて、その度にこの ”つまらない常識 ” が変わってきました。


(「勉強しなさいと言うべきだ」派)


・子供は未熟である

・将来の利益を十分に理解できない

・放っておけば楽な方へ流れる

・「歯を磨きなさい」「道路に飛び出すな」と「勉強しなさい」は本質的に同じであり、親が子供を導くのは当然。

・勉強しなさいと言わない親は無責任である


(「勉強しなさい言うべきではない」派)


・学習は本人の主体性が重要

・外発的動機づけは長続きしない

・強制は学習嫌悪を生む

・「やらされる勉強」より 「自分でやりたいと思った勉強」の方が 学習の深さや継続性が高い

・「勉強しなさい」は学習意欲を奪う言葉


といったことが永遠に繰り返されています。


そして、今の時代は「勉強しなさいと言ってはいけない」に寄っているわけです。


教育心理学の世界でも、偉い先生たちがそれぞれの主張を理論として纏めてきた結果、今の時点では「勉強しなさいと言ってはいけない」が前提として、さてどうやれば「勉強させられるか?」ということに行きつきます。


「東大生の親は”勉強しなさい”とはいわない・・・」


などという ” どうしようもないアンケート結果でできた本 ” なども存在します。


また、「アンドラゴジーとペタゴジー」などとからめたりもします。


親が子供に「勉強してほしい」と願うことはごく当たり前のことのようにも思われますし、また、子供も一人の人間だという考えに立てば、「何事も強制することはよくない」というハザマの問題ですね?


このことをパラドクスと捉えるかどうかは別にして、結局は結論のない議論のようにも感じます。


親も子供も、それぞれの環境も、すべてが違うといった条件で、「勉強しなさいと言ってはいけない」か「勉強しなさいと言うべきだ」のどちらかを常識とするには無理があります。


それに、「勉強」といっても、子供は将来はサッカー選手になりたいと思っているのに、親が東大へ行くための「勉強」を強制してもしかたがない(?)ですし、とはいえ、漢字も書けず、簡単な英単語も知らなくては日常生活もままならない、、、かもしれません。


つまるところ、この議論は親のジレンマによるものですね。


また、この議論は「子供を親の望むレールの上に置いておきたい」という根本的なエゴから生まれるもののようにも思います。


たとえ東大に合格するほどの勉強をした子供であっても、成績が落ちたり伸び悩んだ時には親は「勉強しなさい」と言うかもしれませんし、コンビニで200円のおにぎりを買おうとして150円を出す子供に「算数なんて学ばなくていい」という親もいるかもしれません。


このごく当たり前(常識)になっているつまらない議論に対する私見は、


「勉強しなさいと言ってはいけない」


でも、


「勉強しなさいと言うべきだ」


どちらでもなく、


「好きにすればいいし、そんなことで子供の考えや行動は対して変わらない」 

 

「言っても、言わなくても子供の将来に大きな影響はない」


「どちらも常識などと語られるべきものでもない」


のではないか? ということです。


親から「勉強しなさい」と言われて勉強する子供もいるでしょうし、しない子供もいます。


親から「勉強しなさい」と言われなくても勉強する子供もいますし、しない子供もいます。

 

G-PDCA だとサイクルにならないでしょう?

今回は、「G-PDCA だとサイクルにならないでしょう?」 というテーマで少しだけ考えてみます。

 

G-PDCA だとサイクルにならないでしょう?



日常に追われ、油断しているうちに、またまた意味不明のワードが世の中を駆け巡るようになっていました。


それは、” G-PDCA(G-PDCA)サイクル ” というモノ、、、


(G-PDCA サイクル)


従来のPDCAサイクルの先頭に「G(Goal:目標設定)」を加えた、明確なゴール達成を目指すためのフレームワーク。


(5つの要素)


・G (Goal):何を達成したいのか、目的と期限を具体的な数字で決める

・P (Plan):ゴールに到達するための具体的な計画を立てる

・D (Do):計画通りに実行する

・C (Check):実行結果を事実ベースで検証・評価する

・A (Action):検証結果から次の行動や仕組みの改善を行う


PDCA:すでに目的が決まっているルーティン業務の品質向上や継続改善に向いている。起点:Plan(計画)。


G-PDCA:新規施策や成果が求められる場面で、最初にはっきりとした「ゴール」を置くことで行動のブレを防ぐ。起点:Goal(目標)。 


G-PDCAは、「目標を明確化する」「実践する」「評価する」という設計には有効。


評価後は、「目標そのものが適切だったか」「目標達成基準を変えるべきか」を検討する必要がある。


単純な円環というよりは螺旋(スパイラル)型の改善プロセスとして理解した方が実態に近い。


「OODA」に近くなり、「目標自体が変わる」「環境が変わる」「学習者が変わる」ため、目標そのものを何度も再定義する運用になる。


状況適応型のOODAループ(Observe、Orient、Decide、Act)に近い。


とのことです。


OODAループが思いのほかトレンドにならなかったために、 ” どこかのいい加減な誰か ” が考えたのでしょうが、、、、Goal と言ってしまうと、「それで終わり」ですね?


「サイクルになっていないのに、、、、」


PDCAがサイクルだったため、サイクルとつけた、、感じです。


そして、教育研修関連業者が飛びついて、


「PDCAサイクルではダメで、これからはG-PDCAサイクルだ!」


などと持ち上げたようですね、、、


お金のためなら例えデタラメであるとわかっていても(わかっているのかどうかも怪しいですが)、なんでもかんでも、、、


まぁ、このGoalというのを「形成的評価」と捉えれば、それはサイクルとして成り立ちはしますが、G-PDCA だと、永遠に「形成的評価」になり、「総括的評価」がありません。


「目標」だけあって、「目的」がない

 

わけです。


営利企業として、教育・研修などを生業とし、「お金儲け」をすること自体に問題はないとは思いますが、99%の会社がこういったいい加減なことばかりをその基盤にしているという事実が辛すぎます。

 

ミスアラインメント(misalignment)

今回は、「ミスアラインメント(misalignment)」 というテーマで少しだけ考えてみます。

 

「ミスアラインメント(misalignment)」



OpenAIが数学の難問「ミレニアム懸賞問題」の一つをAIで解決したと発表したことに対し、世界のトップ数学者たちが反発して出した緊急声明に関連する最新のキーワード「ミスアラインメント(misalignment)」が話題になっています。


ミスアライメントというのは、もともとは、機械の回転軸や部品の位置関係が、本来あるべき正しい位置からずれている状態のことで、「ずれ」「芯ずれ」「不整合」「調整不良」といったことのようですが、今回は、目標・認識・行動などが互いに一致していない状態をの意味で使われたようです。


AI が数学の未解決問題を解くことには、多少思うこともありますが、このことについては大した知識も理解もないのでおいておくこととして、教育関連の「ミスアラインメント(misalignment)」について考えます。


(教育におけるミスアラインメント)


授業目標・学習活動・評価方法が一致していない状態。

 

例:

目標:「批判的思考力を育てる」
授業:「暗記中心の講義」
評価:「知識を問う選択問題のみ」

 

育成したい能力と教育実践が噛み合っておらず、ミスアラインメントとなる。

 

みたいなことで、要は「学習目標」と「方略」や「内容」が合致していないということで、とても一般的なことですね。


ちゃんとした「学習目標」をつくれる人もいない、「評価」もできないという人たちが「教育者」として教えて(?)いるのですから仕方がありません。


インストラクショナルデザインを少しでも学べばそのあたりは多くの人が理解できる(理解することとそれを実行することは全く別の能力ではありますが)のですが、そんな人は多くはありません。


教育を考える上で最も根本的なことなので、インストラクショナルデザイン界隈以外にも多くの研究者がこのことについては提唱しています。


(ジョン・ビッグズ(John Biggs)の理論)


教育における「建設的アラインメント(Constructive Alignment)」


「学生に身につけさせたい学習成果」と「授業活動」と「評価方法」を一致させるべきであるという考え。


(建設的アラインメント)


「Constructive(建設的)」と「Alignment(整合・調整)」の2つの概念から成り立つ。


・Constructive(建設的)


学習者は教師から知識を受け取るだけではなく、自分で考え、自分で意味づけし、知識を構築するという構成主義(Constructivism)の考え。

学習は教師が与えるものではなく、学習者自身が構築するもの


・Alignment(アラインメント)


教育の3要素を一致させること。

1.学習目標(Learning Outcomes)
2.学習活動(Teaching and Learning Activities)
3.評価(Assessment)


といった内容です。


まぁ、 ” ごく当たり前のことをごく当たり前に提唱 ” しているのですが、なぜかジョン・ビッグズさんは人気があるようです。


「まず到達目標を決め、その目標を達成できる活動と評価を設計するべきだ」

 

目標を達成したかできなかったか以外に何を評価するのでしょう、、、?


とはいえ、このことを実施できてない「教育擬き」が殆どの世の中ですから、「ミスアラインメント(misalignment)」というコトバや「AIによる未解決問題」のトレンドに乗って、少しだけでも考えてみて欲しいと思うのです。


「学習目標」をつくれば、その「方略」や「評価」も自然とできるという、インストラクショナルデザインや鈴木先生の教え(?)は、真正で正解であると思うのですが、そのハードルが異常に高い、、、、という事実があります。


「そんなことは理解している」

「それさえわからずに教育をしている人なんていない」


と、たまに非難されたりもしますが、


いやいや、、、、できてませんから、、、ね。


もしも「教育」を行っている人の過半数がその理解ができ教育を実施しているのであれば、ここまで「知性も知能も理性もない世の中」にはなっていない、、、と思うのです。

 

「東大生がやっている・・・」という勉強法とやら、、

今回は、 ” 「東大生がやっている・・・」という勉強法とやら、、 ”  というテーマで少し考えてみます。

 

” 「東大生がやっている・・・」という勉強法とやら、、 ” 



世の中に「東大生がやっている勉強法」関連の本がどれだけでているでしょう?


数えることもバカらしいのですが、恐らく数十冊はでているのではないでしょうか?


いまだにこの国では「東大」という ” ブランド ” は強大なパワーを持っています。


こういった類の本を企画する場合の第一選択肢が「東大生」となったのは、テレビの「クイズ王(?)」だとかで「東大生」が無双し、一部の界隈でスター扱いされてからのように思います(テレビのことですから、当然ヤラセもあったと思うのですが、、、)。


まぁ、確かに「東大生」の知識量は膨大でしょうし、それはそれでいいのですが、こういった本を全て信じて実践することなど不可能ですね?


(東大生がやっている勉強法)


(インプット系)


・教科書を何度も通読する「7回読み」勉強法

・白紙に書き出して理解度を確認する「白紙勉強法」

・音読しながら覚える

・授業や参考書の内容を人に説明できるかで理解度をチェック


(アウトプット・演習系)


・過去問から逆算して必要な知識を洗い出す

・間違えた問題だけを集めた「弱点ノート」を作る

・タイマーで時間を区切って問題を解く(本番を意識した演習)

・解いた後に「なぜ間違えたか」を言語化する


(時間管理・習慣系)


・朝の時間に暗記科目をまわす

・スキマ時間(通学中など)を単語・一問一答にあてる

・ポモドーロ・テクニックなど短時間集中を繰り返す

・1日ごとにやることを紙に書き出す「ToDo管理」


(記憶の定着系)


・学んだ内容をその日のうちに復習(当日・翌日・1週間後などの間隔反復)

・関連する知識をつなげて「体系化」して覚える

・五感を使う(書く・声に出す・図にする)


(メンタル・環境系)


・目標を細かく分解して小さな達成感を積み重ねる

・勉強場所を変えて集中力を保つ

・睡眠時間を削らない


といったこと以外にも(ほんとに)山ほどあります。


上記の内容を見てみると、御呪い(?)のようなものもいくつかありますが、「学習の方略」としては、 ” あたりまえ ” のことばかりです。


つまり、こんなことは「東大生」でなくても、多くの学習者がやっているわけです。


それをまるで「東大生だけがやっている秘伝」のようにして本を売ろうというマーケッティングですね。


ビジネス本の世界では、大昔からこの手の手法がとられてきました。


「経営の神様」だとか、「IT長者」、「投資のカリスマ」などなど、、、


に比べれば、さすがに勉強法なので、あまりにいい加減なことは書かれませんが、教育・学習を学ぶ殆どの人が持っている知識で、「東大生」だからこういうことをやってるなんていうことはありません。


しかし、こういう本の問題となるのは、学習者が、


「これをやれば大丈夫・・・」

「東大生がやっているんだから間違いない・・・」


などと思い込むことです。


それができなければ「学習」ができない、、、なんていうことはないですし、選択肢が多すぎて、自分に合った「学習法」を見つけた時には遅かった、、などということもありえます。


それに、こういった類の本を出している人自体が、たいして教育・学習について学んでいなくて、自分の経験や勘だけで書いているモノも多いですね。


と考えると、真面目に教育・学習を考える研究者がこれを真似てマトモな教育・学習方略の本を出せばいいように思ったりします。


「東大生がやっているインストラクショナルデザイン」


とかのタイトルで出版すれば、、、ここまでインストラクショナルデザインが衰退することもなかったのではないか、、、、などと。

 

インタビューによる質的評価

今回は、「インタビューによる質的評価」 というテーマで考えてみます。

 

インタビューによる質的評価



以前、 「教育の質的評価って何だろう?」 でもインタビューの無意味さについて記しましたが、改めてインタビューやアンケートによる質的評価について考察してみます。


・「教える側の人」は、テストなどの量的な評価を行い、あまり良好ではない(デザインしたような)結果が出た場合、 ” 逃げ ” として「質的評価」というコトバを持ち出して誤魔化そう(?)とします。


・逆に、テストの評価が良かった(デザインしたとおり)場合には、「教える側の人を評価をする側」から、「質的評価」はどうなっている? という難癖がつきます。


まぁ、これが現実であり、「教育」が評価されない原因の1つであることは間違いないように思います(ちゃんとした教育デザインもせず、結果を出せない教育者が殆どだという歴史、プロセスが根本原因ではありますが)。


基本的に、「教育の評価」はテストなどの ” 量的評価 ” だけで行うべきだと思っていますが、世間一般では ” 質的評価 ” をやたらと都合よく持ち出します。


様々な教育者が「教育評価」について、


” 量的(データ)評価と質的評価が揃ってこそ正確な評価ができる ”


ということを言い、勿論それは大きく間違ってはいないと思いますが、結局は「理想」です。


それゆえ、


” 「理想」と「現状」とのギャップを埋める、、、” 


というコトバが流行り、「行動変容」と同じで、今やどこにおいても聞かれるようになりましたが、 


” 戯言 ” 


だと思っています。「理想」などというものは、実現できないからこそ「理想」なわけで、、、、


さて、「インタビューによる質的評価」です。


(インタビューによる質的評価)


インタビュー(面接法)は教育における代表的な質的評価の方法の一つ。

データや観察だけでは分からない学習者の内面にアクセスできるため、質的研究や質的評価では非常に重要な手法とされている。

学習者が何を考え、どのように学び、その経験をどのように意味づけているかを表面化できる。

知識はあるが、概念理解や説明力に課題を浮き彫りにできる。

思考の変化、視野の広がり、批判的思考等を評価できる。


(方略)

 

・構造化インタビュー

 >質問を固定

・半構造化インタビュー

 >回答に応じて深掘り
 >自由対話、学習者の語りを重視


といったことです。


「インタビューによる質的評価」がよく語られる背景には、「1 on 1」「コミュニケーション重視」などのビジネストレンドも影響をしています。


人は、「話せばわかる」というような安直な思考をもちがちであり、その心理のもとにインタビューをして、 ” きめつけ ” をします。


アンケートもインタビューも、アンケートを取る側、インタビューをする側の落としどころに着地します。


特にインタビューの場合は普段からその学習者のことを見ているわけで、イメージが完全に出来上がっている場合が多いですね。


インタビューをされる側は、まず殆どの人が取り繕い、考えてもいない、やってもいない ” 嘘 ” をつきます。


そんな関係性に縛られたモノで ” 質的評価 ” などできるわけがないと思いますし、それを ” 質的評価 ” としていいのか、、、というのは難しいところです。


また、量的評価が「どれだけできたか」を測るのに対し、質的評価は「どのように学び、どう成長したか」を捉える評価方法だといわれます。


「どのように学び、どう成長したか」


など、必要なことなのでしょうか、、、と思ったりもします。


「結果」か「プロセス」か?


今後にさらに大きな「結果」を出せるのなら「プロセス」は重要だと思いますが、まずは「結果」の優先という論理が ” 質的評価 ” により揺らいでしまうような気がするのです。


”量的評価”ができた後、もし余裕があれば”質的評価”でいいと思うのですが、どうもマインド重視思考が蔓延した今の世の中では割り切れないようですね、、、

 

” 足場かけ(スキャフォールディング:Scaffolding) ” を外す必要性は本当にあるのか?

今回は、「 ” 足場かけ(スキャフォールディング:Scaffolding) ”  を外す必要性は本当にあるのか? 」 というテーマで考えてみます。

 

” 足場かけ(スキャフォールディング:Scaffolding) ”  を外す必要性は本当にあるのか?



(足場かけ:スキャフォールディング:Scaffolding)


学習者が一人ではまだできない課題を達成できるように、教師や周囲の人が一時的な支援を提供すること

ジェローム・ブルーナー、デヴィッド・ウッド、ゲイル・ロスらによって提唱され。


(理論的背景)

 

ヴィゴツキーの「発達の最近接領域(Zone of Proximal Development: ZPD)」がある。

① 一人でできること:現在の実力

② 支援があればできること:まだ習得途中の領域

③ 何をしてもできないこと:発達段階を超えた課題

 

スキャフォールディングは、②の「支援があればできること」に働きかける支援。


ということで、これまで何度も取り上げていますが、「教育」の効果・効率に係る重要な要因・メソッドです。


そして、この「足場かけ」は ” 外さなければならない ” ということが暗黙の前提になっているような気がします。


そして、 ” いつ外すか? ” ” どのタイミングで、どのように外すか? ” ということが議論され、多くの教育を研究している人たちが、それぞれの考えをだしています。


しかし、


” ほんとうに「足場かけ」は外さなければならないのか? ”


という疑問があります。


この考えの元には、


(冗長性効果:Redundancy Effect)


学習者にとって不要な情報や既に理解している情報が提示されると、かえって学習効率が低下する。


(専門性逆転効果:Expertise Reversal Effect)


初心者には有効な指導が、熟達者には逆効果になる現象。


や、結構眉唾ものの「ダニング・クルーガー効果:(Dunning-Kruger Effect)」などの影響もあると思います。


また、


「足場は ” 支援 ” ではあるが、 ” 依存 ” になってはいけない」


といわれたりもします。


建物の ” 足場 ” は残してはダメですし、工事が終わったら邪魔以外の何モノでもありません。


しかし、「教育」における ” 足場 ” は残しておいてもいいように思いますし、ある意味 ” 依存 ” になってもいいように思うのです。


勿論、「過剰支援:over-scaffolding」になってはいけませんが、「教育」という行為では永遠に ” 足場かけ ” をしていく方がいいように思ったりします。


”足場”を ” いつ、どのタイミングで、どのように ” 「外す」などということをあれこれ考えるより、その場、その状況に係らず、たとえ学習者が必要としていない場合であったとしても足場かけをする、少なくとも ” 足場 ” をかける隙間は必ず残しておいたほうがいいのではないでしょうか?


また、


” 足場を外すこと ” イコール「自己効力感」や「自律」に繋がる ”


という安易な理論にはどうも賛同しかねるのです。


” 足場依存 ” で学習できるであればそれでいいんじゃないか、、、などと


多くの AI は ” 足場かけ ” ではなく ” 答え ” を教えてくれるでしょう(足場かけを行う AIシステムもあるとは聞きますが、、)が、人が「教育」でできるのは ” 足場かけ ” ですから、悪影響が出ない限り続けていてもいいのではないでしょうか、、、

 

お金をかけることが「教育」と考える人(親)たち

今回は、「 お金をかけることが「教育」と考える人(親)たち 」 というテーマで考えてみます。

 

「 お金をかけることが「教育」と考える人(親)たち 」



「教育格差」というコトバとともに、「お金をかけること」=「教育」という思考が非常に一般的(?)になったような気がします。


「親の年収だけで子どもの将来が決まる」


と言い切る教育評論家(?)の人たちも多々います。


たしかに、そういった部分があることも事実ですし、国公立大学に行くにも結構なお金が必要な時代(これ自体が間違っているのですが、、、)ですから、親にある程度の年収がないと、「学ぶ」ことさえもままならないとは思います。


しかし、一部の人たち(親たち)は、


・塾、予備校、家庭教師

・習い事

・私立学校

・留学

・オンライン講座、ICT環境


などをお金で買えば、子供に対して「教育」をした(与えた)と思っている風潮があります。


こういった人たち(親たち)は、自分が子供であった頃の状況を単純に模倣すれば、子供が自分のようになれる、、、と考えているか、自分のような苦労は子供にかけたくない、、、という思考に捕らわれているように思います。


医者や経営者の家に生まれて元々金銭的に余裕があったり、自分の努力と運のおかげで成りあがった人たちの思考はどうしてもそうなってしまいますね?


そしてそこに、


「東大生の親はほとんどが裕福、、、」


なんていう書籍や記事がでたりしたこともこういった思考へ陥ることに拍車をかけました。


「親の年収による教育格差は存在する」


が常識になってしまっているのも仕方がありません。


勿論、、こういったことは、日本に限ったことでも、今に始まったことでもないことはわかっています。海外でも、昔から名を成した人たちの多くは親がお金持ちであったりした場合がほとんどだという歴然とした事実もあります。


「学習環境」という大きな教育要因においては、 ” お金をかけることが「教育」 ” であるかもしれません。


「学習環境」が充実していれば、学習者は学習をしやすくなりますし、効果・効率も上がります。


様々な教育理論やインストラクショナルデザインでも、「学習環境」を整えるというのは重要なことですね?


しかし、多くの人(親)の場合は、お金のかけ方が間違っているというか、お金さえ出せばそれで「教育」をしたと思ってることが問題だと思います。


有名な塾を選定し、進学実績の多い私立学校に入れ、英会話を習わせ、iPadを買い与え、留学をさせ、(親の目的である)大学に合格したら、


「自分は ” 教育 ” をして、その成果が出た」


と実感するわけです。


そういった人(親)の ” 子育て本 ” みたいなのが本屋でも「教育」の棚に並んでいたりします。


さて、学習者である人(子供)の意思や思考は? と考えると、残念ながらどこにも見当たりません。


” 学習者がそこにいない ” ということは、「教育」ではないということですね?


昔で言えばリモコン、今の時代ならドローンを飛ばしているようなものです。

 

学習者(子供)自身が学びたい、やりたいということにお金を出して実現させることはいいことですし、「教育」の意味合いもあるとは思います。


しかし、自分が望むレールを敷き、その上を止まったり外したりしないように強制して最終駅まで導くことが「教育」であり、お金をかけることが「教育」と考える人(親)たちの納得できるキーワードが「教育格差」だと思います。

 

こういったことを考えた背景には、自分自身の苦い経験があるからです。


「教育・学習」というものを学ぶ前には、私もお金をかけることが「教育」と考える人間(親)でした。上の子供が高校に入るまでは、幼いころから習い事、塾に通わせ、、、、自分が「教育」をした、、みたいに思っていました。


しかし、「教育・学習」を学んでからは、そういったことの殆どが間違っていて、まったく「教育」などはおこなっていなくて、レールを敷いて子供を走らせていただけだということに気づきました。


子供であっても他人です。人は、それぞれ自分が学びたいことを学び、やりたいことをやればいいわけです。


そのサポートができればそれはそれでいいですし、経済的な状況からサポートできなければ別の方略を考える、、、、ことが大事なのではないでしょうか?


などと、後悔というものを考えながらふと思いました。

 

「大学に行かない方がいい問題(?)」の考察

今回は、 ” 「大学に行かない方がいい問題(?)」の考察 ” というテーマで少しだけ考えてみます。

 

「大学に行かない方がいい問題(?)」の考察



巷では、


「ブルーカラーこそ今時の選択肢!」


だとか、


「これからは、レベルの低い大学に行くより、高校を卒業して就職する方が完全に勝ち組]


などという、 ” 非常に頭の悪い議論 ” が SNS を中心に、時にはテレビや新聞、雑誌等のメディアでもさかんに取り上げられています。


この議論の背景は至極単純で、「 AI によりこれまでのホワイトカラーの職種が置き換わり、AI にはできないブルーカラーの仕事が生き残り、給料も高くなる、、、」 というアメリカ発の情報に踊らされているということです。


そこに元来差別が大好きな日本人のインフルエンサーたちが乗っかったということですね。


大学にランクをつけてどうのこうのと面白おかしく嘲り収入を得る、という人たちの策略が、知能、知性の劣化した国民に見事に嵌ったわけです。


まず、これまで何度も記していますが、大学にランクをつけるということ自体がナンセンスで、東大、京大等に合格したから上級(勝ち組)、誰も知らない無名の大学に入ったから下級(負け組)、、、なんてことはありませんし、中学、高校を卒業して就職した人たちも同様です。


確かに、現在の「学校教育」は、いかに上の学校(予備校や塾がランク付けした)に行くかという競争が目的であり、そのことに構造的な問題はあります。


しかし、絶対的に大学(高校も)というのは「学びたいことを学ぶ場」です。勿論、「学びたい」という人たちだけが入学していない(大半でしょうが)ことは誰もが理解しています。


それでも、


「学びたいことを学ぶ場」


「学びたいことが学べる場」


であることにかわりはありません。


会社に入る時の初任給は高卒と大卒では違いますし、給料が上がっていくスピードも違いますし、多くの会社では目指せるポジションの制限もありますから、これまでの情勢では大卒で就職する方が確実に経済的に有利であることは間違いがありません。


その構造が AI によって大きく変わりそうだから、「大学になんて行かない方がいい」というのは、余りにも安直な論理です。


そしてすぐに、


「手に職をつけて」


とか、


「肉体労働が AI に取って代わられるのはまだまだ先、ホワイトカラーなんてレイオフ、リストラ、、」


などということを言い出します。


もしかすると、ほんとうに大きく構造が変わる時代が来るかもしれません(まぁ、私的にはそんな時代はおそらく来ないと思っていますが、、、)。


その場合、早く社会に出て経験を積んで、手に職をつけた人の方が優遇されるということもあるでしょう。


しかし、そうではなくて、 ” 問題は違う ” わけです。


「大学に行かない方がいい」


も、


「大学に行った方がいい」


も、「勝ち組」「負け組」という陳腐な論点で語ることではないはずです。


義務教育はとりあえず ” きまり ” ですから殆どの人が受けなくてはなりません(なぜ義務なのかはよくわかりませんし、このこともおかしいとは思いますが)が、


” 高校へ行くのも、大学へ行くのも、学びたいことがあるから ”


であるべきですね?


” 学びたいことがなければ、学校など行く必要はない ”


わけです。


まぁ、 ” 堅固な構造の中で、あらゆることを他人と比較して生きている ” 人間ですから、その構造を無視したり抗うのは簡単なことではありません。


また、 AI への依存は今後もさらに大きくなり、「学ぶ」ということの種類や方法は大きく変わっていくかもしれません。


しかし、それでも「人は学び」、「学ぶべき場」はいつまでもあるべきだと思うのです。


と、またまた完全な理想論を述べましたが、国政を担う人、学校で教える人、企業の中にたった一人でもそういった理想を持ち語る人がいればいいなぁ、、、、と思うわけです。

 

 

「教育心理学」に纏わりつく借り物感

今回は、 ” 「教育心理学」に纏わりつく借り物感 ” というテーマで少しだけ考えてみます。

 

「教育心理学」に纏わりつく借り物感



「教育心理学」は、教育的な視点から心理学を応用しようとする学問であり、多分、もともとは ”子供の教育 ” に心理がどう影響するかを考える重要性から生まれたモノだと思います。


ヘルバルト、デューイ、ソーンダイク、ピアジェ、ヴィゴツキー、スキナー、ブルーナー、ローゼンタール、レイヴ・・・・このカテゴリーに分類される研究者は非常に多いですね。


勿論、彼らは「教育学」「教育研究」の中に「心理学」を融合させたり(逆に「心理学」「教育」を取り込んだり)、借りてきたりしているだけで、「教育心理学者」という肩書を自ら名乗っている人はいない(少ない?)わけですが、、、、、


それでも、それなりに「教育心理学」は一般に認知されてきました。


しかし、何となくいまだに 「教育心理学」という学問には、” 借り物感 ” が纏わりついているように思ったりします(教育工学と同じように)。


「教育」や「教育心理学」に関する事柄について最もよく批判的な議題として上がるのは(他の分野も当然そうですが)、


「理論(研究成果)と実践(現場)の解離」


であり、


「科学的普遍性と個の多様性の矛盾」


です。


「教育心理学」は、それでも「実験や統計に基づいた科学」を主張しますし、たしかにほとんどの理論やモデルは「実験」を行い、「統計」を頼りにしているとは思います(とはいえ、その n数 が非常に小さいことが信頼性を疑う原因になってはいますが、、、)。


その朧げな( n数 が非常に小さい)実験や統計に基づいた科学」である「教育心理学」には、


・ 「平均値」が目の前の「一人」に通用しない教育心理学の多くの研究(学習意欲の向上、記憶のメカニズムなど)は、統計的な「平均値」や「有意差」を根拠にしているが、実際の学校現場で教師が向き合うのは、家庭環境も性格も異なる「個別の人間」であり、統計の限界として、8割の生徒に効果がある指導法(理論)も、残り2割の生徒には逆効果になる可能性があったり、理論が一般化・抽象化されすぎるあまり、現場で最も支援が必要な「極端なケース」や「グレーゾーンの子ども」への具体的な解決策にはなりにくい。


・教育現場の「心理主義化(医療化)」に伴い、教育心理学や発達心理学の知見が浸透した結果、学校現場のあらゆる問題(不登校、学級崩壊、反抗など)を「子どもの心の問題」や「発達の特性」だけに還元してしまう傾向が批判される。

「学校のシステム」「教師の指導力」「社会や家庭の経済格差」に原因がある問題でも、「この子のメンタルに問題がある」「発達障害の傾向がある」と片付けられてしまうリスクがあったり、教師が教育的アプローチを諦め、「カウンセラーや専門医に任せるべき領域」として思考停止してしまう弊害。


・実験室と「リアルな教室」の環境の差心理学としての科学的正しさを証明するためには、条件を厳密にコントロールした「実験」が必要であるが、実際の教室はノイズに満ちていて、実験室で実証された「効果的な学習法」を、クラスの生徒がいて、毎日人間関係のトラブルが起きるリアルな教室でそのまま再現することは極めて困難であり、SNSの普及やGIGAスクール構想など、目まぐるしく変わる教育環境に対して、厳密な手続きを踏む学術研究のアップデートが追いつかない。


などということが常に指摘されますし、こういった内容は、ある意味正しいとは思います。


また、さらに全般的な批判では、


・人間の教育・学習を単純化しすぎる

教育心理学では、学習意欲や学力、認知能力などを測定・分析するが、実際の学習は家庭環境、人間関係、文化、経済状況など多くの要因の影響を受けるため、心理学的変数だけでは十分に説明できない。


・研究結果を現場に適用しにくい

実験や調査で効果が確認された方法でも、実際の教室では必ずしも同じ結果にならず、学級の雰囲気や教師の力量、児童生徒の特性によって効果が変わる。


・個人差への対応が難しい

教育心理学は「一般的な傾向」を明らかにすることは可能だが、実際には子ども一人ひとりの発達や学習スタイルは大きく異なり、理論が個人にそのまま当てはまらない場合が多い。


・ラベリング(レッテル貼り)の危険性

学習障害や発達特性などを理解するうえで有用な一方、診断名や能力分類によって「この子はこういう子だ」と固定的に見られる危険がある。


・文化的な偏り

理論の多くは欧米で発展してきたが、異なる文化や教育観を持つ社会に適用する際には抵抗がある。


「学習者の内面(認知・動機づけ)に注目しすぎて、教育の目的や価値を十分に扱えない」


と、一部の界隈では、「心理学」全般と同じように ” 都市伝説的扱い ” をされたりもします(フロイトの功罪でしょうか?)。


教育関連業界(?)、つまり「教育でお金儲け」をしようとする人たちのいい加減で都合のいい「教育心理学」からの転用もその一因だと思います。


また「教育」プロであるはずの、「教育研究者」の中にも「教育心理学」を ” 異端 ” とみる人たちもいて、「教育」に「心理学」はあまり必要ではない、、、、などと、、、


「教育学」は「心理学」など借りてくる必要がない、、というより、「教育学」の方が「心理学」より学問的ヒエラルキーで上位にいると信じたい人たちもいます。


そこで、「心理学」をできるだけ排除して「教育」を考えようとして、当然のごとく ” 破綻 ” します。


「教育心理学」はある程度一般認知されましたが、やはりいまだにネガティブな思考をもった(もしくは金儲けに使おうとする)人たちの影響によって ” 借り物感 ” が拭いされずにいるような気がします。