louribot’s blog

学習成果の出る企業内教育(教育全体)についての考察を語ります

「ジャストインタイムティーチング(JiTT)」 について

今回は、「ジャストインタイムティーチング(JiTT)」 について考えてみます。


「ジャストインタイムティーチング(JiTT)」 ”授業の前”「事前の課題」を出すことが一番の特徴です。


これは「宿題」とは違って、予習と知識確認の意味があります。簡単に言うと、


・「ジャストインタイムティーチング(JiTT)」で出される事前課題=診断テストもしくは事前テスト

 

・「宿題」=事後テスト

ということです。

 

では、内容に入っていきます。


(ジャストインタイムティーチング(JiTT))

 

学生と教師の間の相互作用を強化するための教育戦略であり、オンライン学習と対面学習を組み合わせたハイブリッド型の教育方法。

授業前にオンラインで提出する短い課題(通常は数問の問題やエッセイ)を基に、教師がその分析をし、授業を計画・実施する。

教師は学生の理解度や疑問点を「リアルタイム」で把握し、それに応じて「ジャストインタイム」で教材を調整することが可能となる。


LMS(でなくてもメールでも可能)で、”事前課題” を出し、その内容を教える側が分析してから、実際の授業を行うということです。

そして、その授業というのが、まずは ”事前課題” の回答に対するフィードバック、そして補足があればその内容についての講義、、、となります。

ジャストインタイムティーチング(JiTT)

ジャストインタイムティーチング(JiTT)やり方の例としては、


・オンライン課題の設定

教師は次の授業で扱う予定のトピックについて、学生が授業前に解くべきオンライン課題を設定。課題は、短いエッセイ形式の問いや、選択肢から最適な解答を選ぶ形式の問題など、さまざまな形で出題することが可能。


・学生の回答と自己評価

学生は授業前にオンライン課題を解き、自分の理解度を自己評価。これにより、学生自身が自分の理解度を把握し、必要な学習を行う機会を得ることができる。


・教師による課題のレビュー

教師は授業前に学生の回答をレビューし、学生が理解している内容、理解できていない内容、または誤解している内容を把握。


・授業内容の調整

教師はレビューの結果をもとに、授業内容を調整。例えば、多くの学生が特定のトピックを理解できていない場合、そのトピックについて詳しく説明する時間を設ける。


・授業の実施

教師は調整した授業内容に基づき、授業を実施。授業中には、課題の回答に基づくディスカッションを行う時間を設けることも可能。

 

「ジャストインタイムティーチング(JiTT)」メリットデメリットは、


(メリット)

 

・学生の理解度の把握

教師は学生が理解している内容や理解できていない内容をすぐに把握することができる。


・授業の柔軟性

教師は学生の理解度や興味に応じて、授業内容や進行を調整することができる。


・学生の参加促進

この手法は学生の積極的な参加を促し、自己学習や批判的思考のスキルを向上させることができる。


・フィードバックの迅速化

学生は授業前の課題を通じて、自分の理解度を確認し、必要なフィードバックをすぐに得ることができる。


(デメリット)


・時間管理

教師が学生のフィードバックを得て授業を調整するためには、時間を十分に確保する必要がある。授業の直前に学生からのフィードバックを確認し、それに基づいて授業内容を調整するため、教師の負担が増える可能性がある。


・学生の参加

すべての学生がオンライン課題を定期的に完了するわけではないため、一部の学生のフィードバックしか得られない可能性がある。その結果、授業全体のニーズを完全に反映するのが難しい場合がある。


・テクノロジーの問題

オンライン課題を活用するため、インターネット接続や技術的な問題が生じる可能性がある。また、すべての学生が適切な技術的リソースを持っていない場合、一部の学生が不利になる可能性がある。


・学生の負担

学生は授業前にオンライン課題を完了するための時間とエネルギーを必要とします。これにより学生の負担が増える可能性がある。


といった感じです。


どうでしょう? これで完璧な授業ができるわけではないですが、通常行われている

「ご講演座学」の授業 + 宿題

よりはいいように思わないでしょうか?


学校や企業の教育において、最も重要なのは、


”事前の学習を主にすること”


だと思っています。

 

本当は、ミネルバ大学がやってるように事前課題をやっていないと授業に参加できない、、、という風にすべきですが、すべての環境がそれをやることは難しいですね?

また、ジャストインタイムティーチング(JiTT)には「事後テスト」を行わない場合が多いようで、これは改善すべき点ですね(やってる場合もあるのでしょうが、、、)。

ミネルバ大学は授業終わりにその評価が出ますね、、、凄すぎる、、


まぁ、ある意味、エリート校ならできそうな、、、、と考える人も多いと思います。

 

しかし、学習者のレベルを把握し、クラスの中でグループ分けして、そのグループにあった学習内容方略を適用できるようになるのではないかと思うのです。


「ずっと「ご講演座学」の授業をやってきたから、そんな面倒なことはやりたくない」


「知識を習得させることが最重要事項ではない」


とか、考える「教える側」の人たちは、「教える側」を降りるべきですね?


学習内容は教師や教育担当者が変えられるものではないでしょうが、”方略” を変えても問題ないのではないでしょうか?


”アクティブラーニング” が流行った頃には、みんなグループワークとかやってたじゃないですか、、、、


授業というのは、わからないところをわかるようにしてもらう機会だと思っています。

自分で学習して、理解できない部分を「教える側の人」に訊ねて、自分で答えが出せるようになる、、、、

それが「教育」だと思うのです、、、

「デジタルネイティブ(digital native)」と「デジタルイミグラント(digital immigrant)」再考

今回は、マーク・プレンスキー(Marc Prensky)が発案したとされるデジタルネイティブ「デジタルイミグラント」” ということについて少し再考してみます。


デジタルネイティブ「デジタルイミグラント」でどちらが優れているかとか、どちらがいいか? みたいなことがよく語られますが、そんなことは時代の話なのでどちらでもよくて、優劣を決めても仕方がないことです。


学習のスタイル、分野や、その傾向などについて考えてみます。


因みに、「デジタルイミグラント」古い時代の人たちだから、、みたいなイメージがありますが、一概にそうではありません(と、自己肯定?)としておきます。


デジタルネイティブ

生まれたときからデジタル技術に囲まれて育った世代のことで、インターネットやスマートフォンタブレット、パソコンなどのデジタルデバイスを自在に操る能力を持つとされている。


(デジタルイミグラント)

IT普及以前のアナログ環境に生まれ、学習によって後天的にデジタル環境に合わせてきた世代。 「デジタル移民」や「デジタル入植者」と呼ばれる場合もある。人生の途中からインターネットのある世界に移り住んだイメージ。

デジタルネイティブ デジタルイミグラン

まず、学習のスタイルについて考えてると、


デジタルネイティブの学習スタイル」は、


・自由度

自分の興味のある分野を自由に学ぶことができ、自己啓発のための多くのリソースにアクセスすることができる。


・柔軟性

時間や場所に縛られずに学習が可能で、自分のペースで学ぶことができる。


・広範囲の情報

インターネット上には膨大な量の情報があり、その全てが学習リソースとなり得る。


インタラクティブな学習

オンラインでは対話形式の学習やゲーム形式の学習が可能で、学習体験をより楽しみながら行うことができる。


・情報過多

情報が溢れているため、どの情報が信頼できるのかを見極めるスキルが必要。


・自己管理能力

自分のペースで学習するため、自己管理能力が求められる。これが不足していると学習が進まないこともある。


・社会的スキルの欠如

全てをデジタルで行うため、対人スキルやコミュニケーション能力が育たない可能性がある。


・デジタルデバイスへの依存

デジタルデバイスに過度に依存すると、健康問題や生活習慣の乱れなどの問題が生じる可能性がある。


といった特徴があるといわれています。


では、「デジタルイミグラント」は?

というと、


生まれた頃にはネット環境も、中学生レベルのAI(ChatGPT)もなく、対面の学校・塾の授業、紙の書籍、参考書、、、などで学び、次第にパソコンやインターネットを使用するようになった、、


という感じです。


「デジタルイミグラント」は、デジタル以前の人たちということではありませんし、デジタルの発展、進化とともに生きてきた人たちです。

 

勿論、中にはデジタルに興味が無い、ついていけなかったという人もいるでしょう?

そういう人のことは何と言うのかわかりませんが、「デジタルフュージティブ(digital fugitive)」とでも、、、言っておきましょう ???

 

因みに、その前の世代は「デジタル・エイリアン(digital alian)」だそうです・・・(ひどい話ですね?)


「デジタルフュージティブ(?)」は置いておいて、デジタルネイティブ「デジタルイミグラント」の学習スタイルには差があり、学習内容や習得となるとそれぞれ一長一短もあり、どちらがどうと簡単には言えない状況です。


また、ここで、最も顕著なデジタルと学習の関係で言えば、


デジタルネイティブスマートフォンがメインツール

「デジタルイミグラント」「パソコン&紙」がメインツール

 

ということです。


デジタルネイティブ」=「パソコン」と考える人もいるでしょうが、これは大きな誤解です。


「パソコン」をツールとして学習、情報検索使用する頻度は、圧倒的に「デジタルイミグラント」の方が多いですね?


デジタルネイティブは殆どスマートフォンで完結させようとしますし、実際に完結することも多いです。


スマホで何でも、、、というのは「デジタルイミグラント」には難しいものがあります。

 

パソコンの電源を入れて、コーヒーでも飲んで、、でとなり、それさえ面倒な人は、紙のテキストを探す方がということも多いでしょう。

ということで、” 情報” へのアクセススピードは、明らかにデジタルネイティブの人たちに分があります。


しかし、アクセススピードが速いと言っても、そのネットの情報はすべてが ”真” ではないため、というより、”偽” の方が明らかに多い中で、情報を精査するというロスが発生してしまいます。

 

紙の専門書、教科書、参考書にも誤った情報が含まれることもありますが、ネットの情報に比べれば、ほぼ ”真” といってもいいくらいのレベルでしょう?

紙の情報とネットの情報をミックスして使用する「デジタルイミグラント」の方が先にゴールにたどり着く、、という場合もあるでしょう。


また、

 

デジタルネイティブ」=「プログラミング」

 

という概念も違います

 

国の方針によって学校で「プログラミング教育」が行われるようになって、デジタルネイティブは誰もが「プログラミング」できるように思うのでしょうが、強制的にやられていることや、目標のない教育であるため、「プログラミング」ができる割合は実は多くありませ。また、スマホで「プログラミング」をやるのは面倒だという要因もありますね?


一方、「デジタルイミグラント」は、パソコンが普及し、そういった関連の企業や仕事が多くなった世代ですから、あくまで仕事においてですが、実は「プログラミング」ができる人は多いです。とはいっても、仕事で「プログラミング」をやるわけですから、クリエイティブなことや新たな発想ができる人は少ないです? 技術はあるが、それは業務のためということです。

 

「学習の分野」もかなり違ってきているように思います。


デジタルネイティブ」=「範囲の広い分野、最新分野の学習」が得意

「デジタルイミグラント」=「確実(古典的)な知識の学習」が得意


のような傾向があるのではないでしょうか?

日々、新しい情報が垂れ流されるので、その中で興味を持つという人も多いでしょうからね、、、


ということで、デジタルネイティブ「デジタルイミグラント」の学習スタイルや傾向、分野について考えてきましたが、特に結論ということはありません。こういったことになっているのではないでしょうか? というだけのことです。


最後に、”最強の学習” についての ”提言” です。

 

これだけデジタルが一般的、というよりベースになった世界も、ある程度旧来の紙のテキストを併用することデジタルネイティブにできれば、”最強” になるかもしれません(実際にできる人は既にいますね)。


前にも記しましたが、”専門的な分野” になると容易にネットでは見つからないこともまだまだ多く、高価な専門書を購入しないといけない、、、なんていう ” 中途半端な時代” です。


確実な”真””偽”を AI が判別して、限りなく”真”が残り、専門的な内容もすべてネットに載るような世界になれば、、、と思います。

 

その頃には、デジタルネイティブ」「デジタルイミグラント」などというコトバは消えているでしょう。

「人材育成」というモノ ~ そんなに大きく振りかぶらないでも ~

今回は、”「人材育成」というモノ”について考えてみます。


以前、日本e-Learning大賞 とかいう催しに教育の概要を出したところ「人材育成特別部門賞」なんていうものを貰ったことがありますが、、、


「人材育成」って、、、非常に曖昧過ぎる概念ですね?


一応調べてみると、

人材育成

(人材育成)


企業が業績を上げて経営目標を達成するために、従業員に必要な知識やスキルの習得を促すこと。

職種や役職・入社年数などで対象者を分け、研修などを通して一律のスキル習得を目指します。

社員を経営戦略の実現に貢献し、会社の利益を生む人材に育てること

必須3要素

「コミュニケーション」、「協働の意欲」、「共通の目標」


人材育成で大切なこと

 ・目的を明確にする
 ・目標を設定する
 ・スキルの可視化を行う
 ・期日を決める
 ・自主性・自発性を養う
 ・モチベーションを管理する
 ・育成担当者のスキルを高める
 ・人材育成に関する制度を整える


育成内容


・技術的スキルの教育

特定の役職や業務に必要な技術的スキルの教育が重要。コンピューターの使用方法、特定のソフトウェアの操作方法、業界固有のツールの使用方法などが含まれる。


・リーダーシップとマネージメントスキルの育成

リーダーシップスキルとマネージメントスキルは、チームを指導し、適切に業務を管理するために必要。これらのスキルを育成することで、従業員はより高いレベルの職務に昇進する準備ができる。


・コミュニケーションスキルの強化

効果的なコミュニケーションは、企業内での協力と生産性を高める。従業員が他のチームメンバーやマネージャー、クライアントと効果的にコミュニケーションを取るためのスキルを強化することが重要。


・継続的な学習と成長の機会

企業の環境は絶えず変化しているため、従業員が新しいスキルを学び、既存のスキルを更新する機会を提供することが重要。


・個々の従業員のニーズと目標を理解する

すべての従業員が同じスキルや知識を必要とするわけではない。個々の従業員のキャリア目標や学習スタイルを理解し、それに基づいて個別の育成計画を作成することが重要。


・フィードバックと評価

従業員のパフォーマンスを定期的に評価し、フィードバックを提供することで、従業員が自身の強みと弱点を理解し、改善のための具体的なアクションをとることができる。


ということです。

 

要は、会社を大きくする、継続させるために従業員を教育しましょう、というコトですよね?

 

資本主義の世界では、まっとうな考えで、その方法や手法を書かれた「ビジネス書」が常にベストセラーになるはずです。


本来は「教育・学習」の文脈で語られることなのでしょうが、経営学と勘違いする人が非常に多いですね?


経営学は、


企業活動の原理や構造、またその合理的な管理方法などを研究する学問


であり、もちろんその中には ”人(従業員)”が含まれますから、「マネジメント」「人材育成」などということを入れたがります。


日本でも世界でも、これまでに何人もの「経営の神様」が現れ、その人たちの精神論みたいなことを書いた本が売れました。


そういった本を何冊か読んでみたことがありますが、たたき上げの成功者物語であり、

 ・時代

 ・偶然の悪戯

 ・タイミング

 ・人との出会い

がほとんどを占め、

最後には、


「自分に正直に・・・」

とか

「他人にやさしく・・・」

みたいな感じですね?


また、以前、誰かが

ドラッカーアメリカの経営学では学ばれない、単なる哲学・・」

のようなことを書いていましたが、、、、、


つまり、「経営者」と「経営学者」の副業(?)みたいな感じで広まっていったのが「人材育成」だと思っています。


・たまたま経営に成功した人

経営学と違うことで成功した人

・アカデミアの先生

の理論をもとにしているモノがほとんどではないでしょうか?


実際に、「人材育成で成果が出た」、、、と宣伝する会社は多いですが、


・具体的にどのような育成成果があったのか? 

・育成できた知識・スキルの数値的レベルは? 

・マネジメントや組織改革が売り上げ上昇に果たした因果は?


など、全く無いですね?


「人材育成できた」=「業績が上がった」


という、言ったもの勝ちの世界ですね。

 

理論としても、”浮世離れしたモノ” が多く、


(人材育成理論の弱点)


・実践的な知識と理論的な知識の乖離

企業の人材育成には実践的な知識とスキルが必要だが理論や提言は、実際のビジネス環境や職場の現状を反映していない場合が多い。


・現場のニーズの理解不足

企業の具体的な課題やニーズを十分に理解していない場合が多く、企業の現状や目指すべき目標に合致していない場合が多い。


・柔軟性の欠如

理論は堅苦しく、古典的な教育方法に固執する傾向がある。現代の企業が変化の速い環境で生き残るためには、新しいアプローチや創造的な思考が求められる。


・長期的な視点と短期的な視点の違い

理論は長期的な視点で考えられるが、企業は短期的な結果を求められることが多い。この視点の違いが適用を難しくする。


・フィードバックの欠如

理論は一方的であり、その結果がどのように企業の実績に影響を及ぼすかを評価する機会が少ない可能性がある。効果的な改善策を見つけるのが難しくなる場合がある。

 

「人材育成」とか大きく振りかぶらず、「教育・学習」を確実にすればいいだけのことだと常々思うのです。

21世紀の今、「コミュニケーション能力」は「知識習得」の学習にどれほど影響するのか?

今回は、” 21世紀の今、「コミュニケーション能力」は「知識習得」の学習にどれほど影響するのか? ” ということについて少し考えてみます。


”どのように” ではなく、”大体どれくらい ” ということです。”どのように” については、アカデミアにまかせておきましょう。


コミュニケーション能力が、知識習得の学習に影響を与えるということは、一般的に正論とされているようです。


これは ”どのように”、”なぜ?”です。

コミュケーション能力

・明確なコミュニケーション

適切なコミュニケーション能力があると、情報や知識を受け取る際に誤解や混乱を避けることができる。これにより、習得したい知識をより正確に理解することができる。


・アクティブラーニング

 他人とのコミュニケーションを通じて、新しい視点やアイデアを得ることができる。これは、知識を深め、新たな情報を統合するのに役立つ。


・問い合わせる能力

知識を習得するためには、自分が理解できていない事柄や疑問点について質問する能力が必要。これはコミュニケーション能力の一部であり、これにより学習過程が向上する。


・フィードバックの利用

効果的なコミュニケーションにはフィードバックが不可欠であり、これは学習においても同様。他人からのフィードバックを理解し利用する能力は、知識の習得を助ける。


・コラボラティブラーニング

知識を習得するための一つの方法は、他人と協力して学ぶことがある。これには強いコミュニケーション能力が必要であり、共同作業を通じて多くの知識を習得することができる。


というようなことですね。


また、デメリットとしては、


・情報過多

良好なコミュニケーション能力を持つ人は、多くの情報を得ることができるが、その一方で情報過多になり、重要な情報を見落としたり、混乱を招く可能性もある。


・時間の浪費

コミュニケーション能力が高い人は、他人との交流を楽しむ傾向がある。しかし、これが過度になると、本来学習に費やすべき時間がコミュニケーションに取られてしまう可能性がある。


・他人の意見に依存しすぎる

コミュニケーション能力が高いと、他人の意見や視点を理解しやすいが、それに依存しすぎて自分自身の考えを持つことが難しくなる場合もある。


・プライバシーの侵害

コミュニケーション能力が高い人は、他人から信頼されやすく、多くの情報を共有されることがある。しかし、これは他人のプライバシーを侵害する可能性もある。


・誤解を生む可能性

言葉をうまく使う能力があると、意図しない誤解を生む可能性もある。自分が伝えたいことと受け取られる内容が異なる場合、これは混乱や問題を引き起こす可能性がある。


要は、面倒なことや、やりたくもないことに巻き込まれたりすることも多々あるということですね?


さて、そこでテーマである、


”21世紀の今、「コミュニケーション能力」は「知識習得」の学習にどれほど影響するのか?”


ということです。

前にも記しましたが、「コミュニケーション能力」 ”21世紀型スキル” にも含まれますが、


「仕事の方法」

に関する内容で、コラボレーション(チームワーク)とともに定義されています。

 

”「知識習得」の学習”とは関係なく、実際にチーム等で仕事を行う時に「コミュニケーション能力」は必要ですよ、、、と言っているわけで、それは当たり前ですね。


しかし、主に自分1人で行う ”「知識習得」の学習” に、どれくらい「コミュニケーション能力」が必要かというと、

 

21世紀になってからは、

20世紀と比べて非常に割合が下がっているように感じます。

 

わからないことがあれば、スマホやPCで検索すれば大概のことは載っています。ネットが無い時代には、学校で教師をつかまえて訊ねたり、塾の講師に聞いたり、参考書、関連資料を調べて、、、ということをやっていましたね。


勿論、今でもそういったことをやっている人もいるでしょうが、 ”タイパ” みたいなコトバがトレンド化するスピード重視の時代です。

 

殆どの人がネットで調べるでしょう?

そうなると、そこに教師、講師、友達、親、、などとコミュニケーションを取る必要はないわけです。


「アクティブラーニング、PBL、、、、などでは必要でしょ?」

 

確かに、そうですね。

しかし、個人的には今の時代、”グループで学習する必要性” には疑問を抱いています

先に記したように、ネットで大概のことは調べられます。


それをわざわざグループで他人の意見、知識を吟味するということに重要性はあるのか? と思うわけです。


まぁ、そうはいっても、そういうコトがすべてムダだと考えているわけではありません。どこでどう学習できるかを限定することはできません。

ただ、21世紀に入って、間違いなく


「知識習得」の学習における、「コミュニケーション能力」の必要性は、割合が下がっているように思うのです。


AIとのチャットで「コミュニケーション能力」はあまり必要ではないですよね?

「先生のプライド」について ~ 先に生まれただけなのに ~

新学期が始まり、毎年のように「教える人の愚痴」SNSで山のように湧いているので、「先生のプライド」について考えてみます。


「先生」と書きましたが、小中高の教諭大学の教授などの「教える人」の総称と思ってください。


こういった職種の人たちは、医者政治家弁護士などと同じように、


「先生」

と呼ばれます。


英語だと「Teacher」ですが、「〇× Teacher」とは呼びませんよね?

普通に、「Mr.〇×」とか、ファーストネームで呼ぶことも多いように思います。

 

まぁ、逆に教授には「Professor」医者Ph.Dを持ってる人には「Doctor」をつけるので、文化の違いといえばそうなのですが、、、


この国は明治、いや江戸時代から令和の現在まで、

 

「教える人」=「先生」

 

であり、小中校では「先生」「先生」「先生」、、、

 

大学でも「教授」にはさすがに「〇△教授」と呼びますが、准教授講師などには「先生」を使いますね、、、

 

そして、たちの悪いことに、「教える人」たち同士でも

 

「〇◇先生の論文は、、、」

とか、

「△×先生、、部活指導お願いしますね、、」

のように「先生」と呼び合う気持ちの悪い状況です。


その昔、「先に生まれただけの僕」というドラマがあり、このドラマの意図したように「先生」というのが「先に生まれた人」という意味で使っているのであれば全く問題はないようにも思うのですが、、、、

先生

話しはまたも逸れますが、このドラマの中でインストラクショナルデザインの本がちらっと映り、インストラクショナルデザイン」がバズったことがありました(それに便乗できるアクティブな人たちがいなかったため、一瞬の瞬きで終わってしまいましたが、、、)。


しかし、現在、過去、未来(?)「先生」として使われるのは、


「先に生まれた人」


ではなく、


「尊敬する恩師」とか、「偉い人への敬称」


となっていますね。


学校で「〇×先生」と呼ばれ続け、やがて下らない ”プライド” が生まれてくるわけです。

会社での役職と同じですね? 課長部長に昇進した途端、昨日まで言ってたこととまるっきり逆のことを独裁的にやりだしたり、天狗になる人がいます。

 

昔は、

「役職が人を作る」

などと言われ、「管理職」になると未熟な人でも「役職」に似合った言動をとるようになり、成長する、、、みたいなコトを信じる人もいましたが、、


「先生」「先生」と呼ばれているうちに、


「自分は生徒・学生よりも偉いんだ」

「知らないことを、教えてやってる・・・」

「どうでもいいことを訊いてくるな・・・」


みたいになります。

 

そうなると、もはや「教育・学習」が何たるか? などは考えませんし、学ぼうともしません。


いくら巷で「学習者主体」とか「アクティブラーニング」とか言われても、


「自分が先生」


という ”プライド” ”マインド” から全否定していきます。


そして、永遠に「ご講演座学」をやって自己満足するわけです。

 

自分の方法が最善であると信じ込んでしまい、生徒、学生や他の教育者からのフィードバックも無視し、

KKD(「経験」、「勘」、「度胸」)

で、「先生のプライド」を守ろうとするわけです。

こういったプライドを持ってしまった「先生」は永遠に変わりません。

教頭になり、校長になっても変わりません。


”学校というシステム”「構造」が変わらない狭い世界で生涯生きていくわけです。

 

その「構造」が変われば、「先生のプライド」は崩壊するでしょうが、現状では難しいですね?


この国の「先生」という概念が大きく変わればいいのですが、それよりもう「先生」と呼ばせたり、呼び合うのをやめた方がいいと思うのですが、、、

「答えをみてもいい!」という方略

今回は、学習方略としての ”「答えをみてもいい!」” ということについて考えてみます。


”完全習得学習” を実施する中で、"テストに満点合格しない" と次の学習に進めないという ”方略” があります。

 

これは正当過ぎるやり方で、公文式「カーンアカデミー」もこの方略をとっています。


ところが、どうやっても ”満点合格できない人” がでてくる場合があります。

何度も学びなおし、テストを受けても ”満点” が取れない、、、

さて、こういう場合、どうすればいいでしょう?


実際にこういう状況を経験された方も多いかもしれません。私自身も、以前研修の中で担当したことがあります(といっても、自分でデザインした方略のサポートを依頼されただけですが)。


「自学→テスト合格→次の自学」 という、TOTE-Model で研修をデザインしたのですが、

1人の方が、途中のテストで何度やっても8割、9割しか取れず、進捗がどんどん遅れて行きました。


研修のスケジュール的にこのままでは間に合わないと判断し、

答えをみてもいい方略

いつもアドバイスを頂いていた平岡先生(当時は熊大、現在は放送大)に相談しました。


平岡先生からのアドバイスは、

 

「では、採点する前に、”答え” を見てもいい、ということにしたらどうでしょう?」

 

ということでした。

 

「答えを見て、、、ですか?」

 

と、すぐには賛同できませんでしたが、


「人と状況によりますが、それである程度 ”切り替え”られる場合もありますし、スケジュールを考えると、今のままやっていると、その人だけが期間中にすべての内容を学習できないリスクがありますね?」


確かに、、、

確かに、その通りです、、、。

 

平岡先生のおっしゃることは、、、的確で、疑問を挟む余地はありませんでした

 

この方略を行うポイントは、

 

”最初から答えを見るのではなく、まずは自分で回答を作成した上で答えを見る”

 

ということです。


それ以降、こういった場合の助言をもとめられた場合、私自身も

「答えをみてもいい!」

という ”方略 ”を薦めることが何度かありました。


大学のテストで、”辞書持ち込み可”とかありますよね?

これとは ”本質” が違います。

この場合は、大概、単語が重要なのではなくて、例えば全文を読んで、その内容が示していることとか、自身の感想などを問うので、「学習目標」が違うということです。


「答えをみてもいい!」方略は、


”本来は学習して習得しないといけない内容ではあるが、その内容を習得できるメリットよりも、全体としてスケジュールが遅れ他の習得すべき単元にたどり着けないデメリット解消を優先”


したということです。


「教えない教育」

といつも言っているのに、

「矛盾していないか?」

と、言われれば、確かに矛盾しています。

 

本来は、すべてを確実に”完全習得”すべきですし、”教える=答えをみてもいい”というのは邪道です。

しかし、

人と、場合と、状況と、環境によって方略を変えていくというのも必要です。

 

学習方略のデザインは、


”こうでなくてはならない”


ということではなくて、


”よりベターな方を選択する”


ことが重要です。

要は ”柔軟な考え” フレキシブルに対応できるかどうかです。


「教育・学習」理論を学ぶ人の中にも、”柔軟な考え” をできない人を多く見てきました。

というより、平岡先生のようにフレキシブルに思考を組み立て直せる人はアカデミアにもほとんどいませんね?

「人材育成と即戦力」 ~ 日本の「就活」と「採用」の不思議 ~

今回は、「人材育成と即戦力 ~ 日本の「就活」と「採用」の不思議 ~」ということで考えてみます。


この国の新卒の「就活」と「採用」、そして「人材育成」と「即戦力」という思考には、あまりにも矛盾があり、そのことも影響して(それだけではありませんが)、日本企業の国際競争力は右肩下がりで落ちて行っていると考えています。


まず、その一番の原因は、


「就活の開始時期」


つまり、企業側が採用を開始する時期の問題です。

 

「就活ルール」の廃止がどうのこうの言っていますが、あってないようなルールなので大した影響はないですね?


「大学4年になってから、就職先は考えよう」

 

などという時代は、大昔の話で、現在は大学3年になるやいなや「就活」が始まります。


”大学3年” ですよ?

 

大学3年といえば、やっと ”専門知識” を学び始める時期です。


”専門” 分野の知識も特性も何もわからない人を ”採用” する。


これほどバカげたことがあるでしょうか?

就活 即戦力

以前、企業の「採用」については大学時代の成績を考えて、、といった内容を記しましたが、もしそれをやろうとしても、現実世界では ”一般教養” の成績データしかない状況です。

まぁ、企業側が、それが ”採用基準” で、入社してからの ”育成・教育” で優秀な社員にする(現状では全くできていないですね?)というなら、それでもいいのですが、その一方で、企業は事あるたびに、


「即戦力」


と連呼します。


「理工系の大学3年生にどのような”即戦力”があるでしょう?」

「人文系の大学3年生にどのような”即戦力”があるでしょう?」

(大企業のご意向で、この国の大学は「理工系」の学部だけになりそうですが、、、)


この国でも徐々に 中途採用 の枠が広まってはいますが、新卒の採用に比べればまだまだですね?


また、昔から「日本は終身雇用」などと言われていましたが、実際の企業では歴然とした”定年制度”があり、”終身”雇用してくれるところなどほとんどありません。それでも、昔は50歳で定年になり無職となったとしても手厚い”年金制度”に守られて普通に暮らしていけたわけです。

ところが、年金制度の開始に問題(自分の収めた税金が自分に使われるわけではないという)があったことと、経済情勢、政治、、、いや、いや、この辺でやめておきましょう。


「即戦力が長く勤めて成果を”すぐに&永続的”に出してくれる」

 

ことが企業の希望なわけです。


あまりにも都合がよすぎますね?


とにかく、


「即戦力」が欲しいはずの企業が、なぜ ”専門課程になったばかりの大学3年生” を「採用」するのか?


という矛盾です。


「青田刈り」というコトバがありましたが、

 

早く開始すればするほど優秀な学生が採用できる、、、

 

みたいな ”迷信” を企業はずっと信じているようです。

 

”事例主義” ”横並び” をずっとやっていて成果が出たでしょうか?

採用時期を早めて日本企業はどうなったでしょうか?”


「即戦力」を期待するのであれば、中途採用なり大学3,4年の”専門課程の成績”を最低限考慮するべきですね?


そして、”効果的・効率的”「人材育成」「企業内教育」を行えば、アメリカや台湾の企業にも負けないような会社に戻れる(出てくる)、、、と思うのです。


これまで散々記してきたように、「人材育成」「企業内教育」にも数々の問題があります。

しかし、その前に、”迷信” に頼った採用をやめることから始めないと、今のまま右肩下がりで最後には破綻してしまうように思うのです。

「過去問は大事!」

今回は、某超有名塾講師さん(というよりタレントさん)が、

 

「受験対策に過去〇年分の入試試験を勉強することに、根拠はない・・・」

 

という意味不明なことを言っていたので、「過去問は大事!」ということについて考えてみます。


入試だけでなく、資格試験においても、「過去問」というのは軽視すべきモノでは全くありません。


実を言うと以前は、そう考えていない時期もありました。

 

「過去問なんて、所詮過去のモノ」

「今年も、来年も同じ問題が出るわけがない!」

 

と、

確かに、全く同じ問題が出題されるということは、ほぼありえないでしょう?

過去問

しかし、

「過去問」には、テストの傾向レベル前提知識、、、といった多くの判断情報が含まれています。


(メリット)


・問題の傾向を把握する

過去問を解くことで、その学校が何を重視して問題を出しているのか、どのような問題が出る傾向にあるのかを把握することができる。


・実力の確認

自分がどの程度の実力を持っているのかを確認するためにも過去問を解くことは有効。学習の進捗状況を確認する手段としても利用できる。


・時間管理の練習

特に筆記試験では、限られた時間内で問題を解く力が求められる。過去問をタイマーを使って解くことで、時間配分の練習をすることができる。


・試験に慣れる

過去問を解くことで、試験に対する緊張感を和らげ、試験に対する恐怖心を減らすことができる。


・不得意な分野を見つける

過去問を解くことで、自分の苦手な分野や課題を見つけることができる。それを基に対策を立てることができる。


(デメリット)


・過去の傾向に囚われすぎる

過去問を解くことで過去の出題傾向を把握することは有益だが、それに囚われすぎると新しい形式や視点の問題に対応できなくなる可能性がある。


・過去問の解答に依存しすぎる

過去問の解答を見て理解したつもりになり、自分で考える力が鈍る可能性がある。


・完全な再現は難しい

過去問はあくまで過去の試験で出題されたものであり、それがそのまま次の試験に出る保証はない。過去問だけを頼りに勉強すると、思わぬ形の問題に対応できなくなる可能性がある。


・自信過剰になる

過去問を解くことができるようになると、自分の実力を過大評価してしまうことがある。それにより、他の重要な学習がおろそかになることもある。


どう考えても、デメリットよりメリットの方が勝っていますね?


「過去問」を完璧に解ける学力があれば、余程のミスをしなければ合格できるでしょう?


それを「根拠がない」と、、いくらメディアの前で ”賢く” みせたいという状況があったとしても、、、、こういう人には「教育・学習」について語ってほしくないですね、、、。


まぁ、基本的にビデオで ”ご講演座学” をやってる時点で「教育・学習」が何なのかなどわかっていないとは思うのです。

 

勿論、タレントさんですから ”目立ってナンボ” です。しかし、そんないい加減なコトを真に受けて試験を落ちる人たちもいるわけです。


「テストに合格したければ、テストを解く」

 

それが、「学習」における ”基本中の基本” です。

「スパルタ教育」が復活している、、、らしい

遠い昔、「受験戦争」だとか「スパルタ教育」なんていうコトバが毎日のようにメディアで扱われていた時代がありました。

 

そうです、「昭和」ですね?


もう何十年も前に ”死語” となったはずの「スパルタ教育」が復活(復権しているとのニュースを目にしました。

 

ということで、今回は「スパルタ教育」について考えてみます。


嘗て「文武両道」を謳っていた進学校(中高校)が、東大等への進学実績を上げるために「スパルタ教育」を行っている、、、という記事でした。

勿論、私立の学校の話です。

全寮制中高一貫、、、、まぁ、ありがちな環境です。


こういった学校に行く(行かされる)生徒の殆どは、ぶっちぎりのトップクラスではなくその下に位置する子供たちです(想像ですが)。

 

幼児の頃から塾に通い、スポーツなどやることもなく、朝から晩まで親に「勉強」を強制されている、、、といったイメージです(違うこともあるでしょうが)。

もしそのイメージがあっているのなら、全寮制で、朝から晩まで「勉強」を強制される学校に入っても、それなりに順応できるようにも思います。


それが「良いことか?」「悪いことか?」ということは今回は考えません。

 

誰にもその人なりの「事情」があり、「環境」があり、「状況」があります。

・開業医の家に生まれた人

・兄弟全員が東大卒の人

・学歴が無く苦しい思いをした親を持つ人

スパルタ教育

まぁ、しかし、「スパルタ教育」というワードはあまりにもネガティブですね?


(スパルタ教育(Spartan Education))


古代ギリシアのポリス・スパルタで行われていたとされる教育。

極めて厳格かつ過酷な訓練を施すことが特徴。自己が帰属する組織への忠誠心の涵養や、軍事訓練、歌唱、舞踊、狩猟など総合的な社会学習を主眼とする。
スパルタで兵士養成のために幼時から施したきびしい軍事訓練や教育。転じて、そのような厳格な教育法


賛成派の意見としては、

スパルタ教育によって自己管理能力や自己制御力、集団行動のルールや社会性を身につけることができる。厳しい状況下での体験は人間の成長を促し、困難に対する耐久力や逆境に立ち向かう力を養うとも言われている。


(メリット)


・自己管理能力の向上

しっかりとしたルールや規律の中で行われるため、自己管理能力や自己制御力が鍛えられ、自分自身で自分の行動をコントロールする能力が向上する可能性がある。


・困難に対する耐久力

厳しい状況下での体験は人間の成長を促し、困難に対する耐久力や逆境に立ち向かう力を養う。


・社会性の獲得

集団で行われることが多いので、他者と協調して行動することの大切さや、社会的なルールを理解する機会を得ることができる。


・目標達成能力の向上

高い目標設定と厳しい評価が特徴。目標に向かって努力し続ける能力や、困難を乗り越えて目標を達成するためのスキルを身につけることが可能となる。


・自尊心と自信の向上

厳しい試練を乗り越えることで、自分自身の可能性を感じ、自尊心と自信を向上させることができる。


反対派の意見としては、

スパルタ教育は子供の自主性や創造性を奪い、精神的にも肉体的にも過度なストレスを与える可能性がある。一律の厳格なルールに縛られることで、個々の子供の成長や可能性を阻害してしまう可能性もある。

 

「主体性のない勉強」で難関大学受験に合格することは難しい。子どもに無理やり勉強させても、学力向上・合格に意味はない。

 

子どもが主体性をもっておこなう勉強にのみが、学力向上・合格に寄与できる。主体性な勉強ナシに、目標を達成したり、受験を突破することは難しい。

スパルタ教育は受験合格に逆効果。


ということで、「スパルタ教育」の是非は、今の世の中ではほとんどデメリットが支持されるということはわかります。


しかし、現実には、学校でも会社でも、


「目標達成」

「あるべき姿」

「理想とのギャップを埋める」


なんていうことが語られます。


「スパルタ教育」を否定して、「目標達成」を肯定する、、というのがどうにも理解できないのです。


そして、その「スパルタ教育」の内容を読むと、朝一から「テスト」一日に何度も「テスト」、、、


「テスト効果(Testing effect)」

単に情報を聞いたり書いたりするのに比べ、テストを繰り返すことで情報を思い出す(検索する)行為の結果として記憶が強化される。


は、「学習の王道」ですから、方略自体は否定されるモノではないと思います。

公文式」が効果があるのは「テストだけ」だからですね?


寮に缶詰めで、「学習」し、「テスト漬け」、、、で、「成果」が出ないわけはないです。

 

しかし、こういった学校のやり方には大きな欠点があります。

そうです、

「授業」をやっていること

です。

 

私立とはいえ学校なので、国からの指導要綱に沿わないといけない、、、

ということで、日中は最もムダな”ご講演座学”を行うわけです。

 

もし、私がこういった学校の校長なら、”ご講演座学”の授業などせずに、すべて”自習”にしますが、、、、、

それができれば、進学実績は格段に伸びることでしょう?


と考えると、


もし、医学部や東大に入学すること「生徒本人の真正な目標」で、親がサポートできるなら、このムダな部分や、寮での時間的制約(洗濯や掃除、風呂の時間)を取り除いて、、、

 

学校など行かずに、家や塾で勉強すればいい、、、ようにも思います。

 

とはいえ、それでは学校制度が成り立ちませんし、そこまで明確な「目標」を自分で持っていて、実践できる人も多くないでしょうから、そういうわけにはいきませんね?


このような「スパルタ教育」肯定も否定もしませんが、何につけ「勝ち組」「負け組」に分けられる現代では、、、、学校も企業も、横並び、事例主義では頭一つも突き抜けられないということですね。

「逆転の発想」~ IDを目的にする ~ ということ

今回は、” ID(インストラクショナルデザイン)を普及させる ~逆転の発想~  ” ということについて考えてみます。


通常、というより ”正論” として、


ID(インストラクショナルデザイン)は、”手段” であって、”目的” ではない!


と言われます。

まぁ、至極当たり前のコトですね?


しかし、そのあたりまえのコトを、あたりまえに伝えてきた結果、ID(インストラクショナルデザインは普及するどころか、今や衰退の一路を辿っているように私には思えます。


大森先生鈴木先生熊本大学 ”教授システム学専攻” を作られた頃のことは書籍でしか知りませんが、おそらく、当時は世間的にもかなりのインパクトがあり、一定数の人々や企業にID(インストラクショナルデザインが認知されるきっかけとなったのではないでしょうか?


ところが、20周年を迎える前に・・・・・となり、

逆転の発想

このところは、教育関連業者や、学会のホームページくらいでしかID(インストラクショナルデザインというコトバを目にすることがなくなりました。

 

X(Twitter)で、インストラクショナルデザイン で検索してみても、ほとんどヒットしませんね?


私的には、偶然知ったID(インストラクショナルデザインを10年近く勉強し、実践してみたりした結果、不変の理論ではありません(環境に合わせて教育・学習も変化していくので、当然ですが)し、やりようによってはデメリットがあったりもしますが、


ID(インストラクショナルデザイン)のベースがない”教育・学習”などありえない!


と思っています。

 

そして、現実に


「学習者に学習してもらう」=「教育」


ということは、本当に難しいことです。


私は、「メーガーの3つの質問」に感銘を受けて、今も「教育・学習」についていろいろと考えたり、学んだりしているのですが、


・Where am I going? (どこへ行くのか?)

・How do I know when I get there? (たどりついたかどうかをどうやって知るのか?)

・How do I get there? (どうやってそこへ行くのか?)


忙しい世の中、そういう人ばかりではないですね、、、

しかし、どうにか ID(インストラクショナルデザイン)を普及させる方略はないものか? といつも考えています。


鈴木先生がよく言われていたID(インストラクショナルデザイン)の普及方法に、

 

「ID(インストラクショナルデザイン)というコトバを使わずに、最終的に成果をだしたら、これはID(インストラクショナルデザイン)というんです、、」

 

と明かす、というのがありました。


はじめてそれを聞いた時は、


「なるほど!」

「確かに!」

「流石だ!」


と思ったものです。

しかし、それは私のようなID信者(?)になった人間にだけ響くことで、世間様には聊かインパクトが弱すぎたように思うのです。


そこで、「逆転の発想」です。


ID(インストラクショナルデザイン)は、 ”手段” であって、”目的” ではない!

 

ではなくて、


ID(インストラクショナルデザイン)が、”目的” である!


と変えてみるのはどうだろう? と思っているのです。

 

とにかく、「ID」「ID」「ID」「ID」「ID」「ID」と、何かにつけて「ID」というコトバを連発する!


それで、

 

「IDって何?」

 

「DXと同じようにIDが目的!」


という方略の方が、今のトレンドに振り回される世の中ではいいように思うのです(正論では勿論ないし、そんなことまでしなくても、、、とは誰もが思うでしょうが、、、)。


旧日本的に、「でしゃばらない」「品をもって」「控え目」なんてやっていたら、おそらく近いうちに、ID(インストラクショナルデザイン)は日本から消えて無くなってしまう、、、くらいの危機感を持っています。


工業時代→情報時代→AI時代、、、に「”効果的” で ”効率的” な学び」を届けたいですね、、、