louribot’s blog

学習成果の出る企業内教育(教育全体)についての考察を語ります

永遠の微調整 ~ 学習の極意 ~

今回は、「 永遠の微調整 ~ 学習の極意 ~ 」 というテーマで少しだけ考えてみます。

 

永遠の微調整 ~ 学習の極意 ~



何年か前に読んだ本の中で、


「学習の極意は、常に微調整を行っていくところにある・・・」


というのがありました。


まぁ、” 極意 ” というのは大袈裟ですが、確かに何事においても ” 微調整 ” は必要です。


と思いながらも、学習において ” 微調整 ” をするというのは結構難しいものです。


なぜなら、” 微調整 ” した成果・結果は大きくないことが多いですし、何が ” 微調整 ” にあたるのかを判断することも通常は困難であり、サンプルなどがあっても、やはり懐疑的になるように思います。


成果が出ず、伸び悩んだ時などに、 ” 大きな変換・変更 ” を求めることは学習者の思考としては至極当たり前で、誰もが実施しようとします。


そこで、”大きな変換・変更 ” に必要なのは、インストラクショナルデザインや様々な教育・学習理論、フレームワーク、モデルなどです。


それゆえ、教育・学習について考える人たち(研究者、先生たち)は、時に大きな変革・進化を目指そうとして、実現不可能(ありえない状況の)なモデルや理論を無理やり絞り出したりして、それに乗った教える側の人による教育で学習者が被害を被る(?)場合も結構な数であるようにも思います。


そこで、” 微調整 ” です。


(学習における微調整)


思考や方略(学び方)を微調整することは、単に知識を増やすだけでなく、「より効果的に学ぶ力」を育てるために極めて重要。

メタ認知(自分の思考や学習の状態を把握し、調整する能力)とも深く関係している。


・学習効率を高める

学習方法が常に最適とは限らず、「説明できるレベルまで理解する」「演習量を増やす」「復習の頻度を高める」などと方略を修正することで、より効率的な学習が可能になる場合がある。


・誤りから学ぶことができる

「なぜ間違えたのか」「次はどうすればよいのか」を考えることと分析をし、それに応じた学習方法を調整することにより、同じ失敗を繰り返しにくくなり、学習の質が向上する。


・主体的な学習者になる

教師や教材から与えられた方法をそのまま実践するだけではなく、「自分に合った学習方法を選ぶ」「学習計画を修正する」「進捗を確認する」ことができるようになり、学習者自身が学習をコントロールする力を身につけることができるようになる。


・学習の転移を促す

思考や方略を調整する経験は、新しい状況にも応用できるようになり、異なる場面でも学習方略を柔軟に活用できるようになる。


・自己効力感を高める

自分で学習方法を改善し、成果が出ると、「自分は学べる」 「努力の仕方を工夫すれば成長できる」という感覚が生まれ、学習意欲を高め、さらに学習を継続する原動力となる。


ということのようです。


それまでやっていた学習において、ほんの少しだけ工夫、変更をしてみるということは目に見えた成果をすぐには出さないかもしれませんが、「学習」を考えるということだけで、その後の進化に繋がるように思います。


しかし、最初に記したように、” 微調整 ” を常に続けようとすることは困難です。


ではどうすればいいか、、、、勿論、答えはありませんが、考えられることは、


成果が出なかったり、伸び悩んでいる時には、まずは ”大きな変換・変更 ” を行う、”大きな変換・変更 ” は、すぐにはフィットしませんから、自然と ” 微調整 ” を行うようになります。


学習の段階や分野により、”大きな変換・変更 ” もいつかは上手くいかなくなります。


そうなった時には、また新しいモデルや理論、つまり ”大きな変換・変更 ” を行い、自然な ” 微調整 ” に移行します。


”大きな変換・変更 ”があり、それに不随して ” 微調整 ” を継続させるということでしかない

 

ように思ったりします。


”大きな変換・変更 ” なしの、” 微調整 ” というのは余程の天才でもなければ困難なように感じます。


「学習の極意は、常に微調整を行っていくところにある・・・」


かもしれませんが、その前に ”大きな変換・変更 ” を行い、、というコトバが必要であるように思うのです。

 

なぜそこまでして学校に行きたいのか・・・

今回は、「なぜそこまでして学校に行きたいのか・・・」 というテーマで少しだけ考えてみます。

 

「なぜそこまでして学校に行きたいのか・・・」



フランスで国からの教育予算が減らされ、トイレットペーパーがない、教室の椅子が足らない、教師がいなくて授業が実施されない、、、などということに対して、高校生がデモを行い、混乱した状況が報道されています。


間違っていることに対して意見を言い、行動として意思を示すということが高校生でも行えるような文化がフランスにはあるのだという思いと、一方、日本では高校生どころか大学生でも最早そういうことを行うことはないだろう、、、という感慨がわきました。


これはどちらがいいとか悪いとかいうモノではなく、単純に文化の違いということだと思います。


様々な要因により造られた文化は簡単に変えようもなく、また、意図的に変えられることも難しいですね?


と、そういうことが言いたいのではなく、


「なぜそこまでして学校に行きたいのか・・・」


ということです。


「そこまでして、フランスの高校生は学びたいのか?」


と言う人もいますが、そうではないように思うのです。


それは高校生という状況に帰属したい欲求と、アイデンティティや理不尽に立ち向かいたいとうマインド的なモノが大きな要因ではないでしょうか?


高校生であるという自分、学校というコミュティに属している自分、友達と会える、、、、、


そんなことが多くの要因であり、「学びたい」ということはお飾りのように推測します。


本当に学びたい人は、休校になればなったで自宅でも、公園でも学びます。


本を入手することも困難であり、先生様から与えられないと何の情報もないという時代ではありません。


何かを学びたい、知りたいのなら、情報も方略も何から何までネットにありますし、図書館、本屋に行けばいくらでも学ぶための素材はあります。


しかし、フランスの高校生は街に出てデモを行い、警察は催涙弾を打ったり、逮捕したりしています。


「なぜそこまでして学校に行きたいのか・・・」


「学びたい」からではない、、、、、


確かに、「学校」という状況は勉強をするためだけではなく、様々なコミュニケーションや出会いにより、その後生きていくための要素を蓄える場ではあるでしょう、、、、


しかし、そこに「学びたい」ということはあまりないのが問題なわけです。


国や教育関連の人たちは「学校」を「学びの場」として決めつけ、その制度、構造を崩さないように強制してきました。


昔は週に6日、今は5日、朝から登校し、夕方まで ” その場 ” で過ごすという状況はかなりの時間のムダのように思います。


理想(妄想)としては、


「学習」と「コミュニケーションや運動、アートのような集団行動」を分けて、週に2日か3日、どうしても登校しないとできないような後者の場合だけ登校する、、、、


みたいな学校になればいいのですが、まぁ、そういうわけにもいかないのでしょうね、、、、


誰もが、ICT、AI、DX、、、などと言いながら、「学校」という状況、構造が全く変わらないのは異常なように思います。


また、このことは会社という形態でも同様です。


「なぜそこまでして会社に来させたいのか・・・」


ITを推進しているはずのアメリカの大手が、コロナがおさまったから昔のように在宅勤務はやめて週に5日出社するようになり、マネが大好き(それしかできない)な日本企業もそれに追従するという馬鹿げた話。


出社している人たちだけで座席からWeb会議をしているというジョーク、、、


そして、最後には「生産性」、、、、


世の中は、非合理性、不条理に満ち溢れていますから仕方がないのですが、


「1つ1つの目的を考えれば、前提も行程もデザインもすべて変わってくる」

 

というお話です。

 

PISA2025 で浮かれる国

今回は、「 PISA2025 で浮かれる国 」 というテーマで考えてみます。

 

「 PISA2025 で浮かれる国 」



少し前に、「日本が3分野で世界一位!」というニュースがあり、何のことかと思ってよく聞くと「2025年のPISA調査」で ” トップの成績! ” が出た、ということでした。

 


(PISA:Programme for International Student Assessment)


OECD(経済協力開発機構)が3年ごとに実施している「生徒の学習到達度調査のこと。


(概要)


義務教育修了段階の15歳の生徒が持っている知識や技能を、実生活の様々な場面で直面する課題にどの程度活用できるかを測ることを目的とした調査。

 

「科学コンピテンシー」、「読解力」、「数学的リテラシー」の3分野について、2000年以降、おおむね3年ごと(2025年以降は4年ごと)に調査実施。

 

各回で3分野のうちの1分野を順番に中心分野として重点的に調査するほか、回ごとに異なる 教科横断的な領域を対象とする「革新分野」の調査も実施。

 

2015年調査より、筆記型調査からコンピュータ使用型調査(CBT)に移行。

 

平均得点は経年比較可能な設計とされているが、平均得点を比較する場合は、数値の差を見るだけではなく、統計的に意味のある差(有意差)の有無が重要。

 

3分野の調査結果を生徒や学校が持つ様々な特性との関連によって分析するため、質問調査(生徒質問調査、ICT活用調査(生徒対象)、学校質問調査)も併せて実施。


91か国・地域から約76万人が参加。日本からは、全国の高等学校等の1年生のうち、国際的な規定に基づき抽出された183校、約6,500人が参加(2025年6月から8月に実施)。

 

中心分野は、科学コンピテンシー。

 

革新分野は、ICTを活用した自律的な学習(自己調整学習)のプロセスを通して、問題解決し、その中で新しい知識を獲得できるかを調査するラーニング・イン・デジタルワールド(LDW)。


ということです。


「世界一位!」と聞いて、そうなのかな? と思ったその後に、


「OECD加盟国のうち、、、、」


というコトバが付け加えられました。


ということで、


全参加国・地域で見ると、


「科学コンピテンシー」

 (1)北京・上海・江蘇・浙江
 (2)シンガポール
 (3)マカオ
 (4)台湾
 (5)日本


「読解力」

 (1)シンガポール
 (2)北京・上海・江蘇・浙江
 (3)台湾
 (4)日本)


「数学的リテラシー」

 (1)北京・上海・江蘇・浙江
 (2)シンガポール
 (3)マカオ
 (4)台湾
 (5)日本


OECDに加盟している国ではトップ、、、、?


加盟していないアジアの国々にずっと遅れをとっているという事実は言わずに、「世界一位!」と浮かれる国でした。


昭和、平成の初期のことをいまだに引きずって


「日本すごい!」


とか、


「国産でなければ、、、」


といまだに言っている時が止まった人たちと同じ思考ですね?


勿論、「科学コンピテンシー」、「読解力」、「数学的リテラシー」が学力のすべてではありませんし、ごく少数の15歳の成績ですべてを語ることはできません。


しかし、 ” ほんとうのトップクラス ” であるアジアの国々に遅れをとっているというのは紛れもない事実です。


その事実を現実として受け止め、どのように教育・学習を改善していくかということを考えるのが文科省ですが、、、、

 

「OECD加盟国ではトップ、、」

「韓国やイギリス、スイスなどの国には優っている、、、」


などと浮かれている国は、さらに沈んでいくしかないように思います。


「全国でトップ、、、いや県でトップ、、、いや市でトップ、、いや学校でトップ、、いや学年でトップ、、いや、クラスでトップ、、いや成績を教えてくれた友達の中ではトップ、、、、、」


みたいな感じです。

 

誰もが間違っているとわかってるのに・・・

今回は、「誰もが間違っているとわかってるのに・・・」 というテーマで少しだけ考えてみます。

 

「誰もが間違っているとわかってるのに・・・」 



多くの事案で、間違っているし、無意味であり、悪影響もわかっているけれど、やってしまう、やらざるを得ないということがあります。


今話題の ” 内定式 ” というのも確実にその中の一つですね?


” 内定式 ” などというモノが殆どの大企業で導入されるようになって何年にもなるように思います。


その起源・歴史は古いにしても、メディアで ” ごく当たり前のこと ” のように取り扱われるようになったのはごく最近のことかもしれません。


10月1日の夜のニュースでは、「〇×銀行の内定式が行われ、△◇くんが入社に向けての決意を・・・」といった感じですね。


私自身はこの ” 内定式 ” なるものに行ったことがないので調べてみると、


(内定式)


企業が内定者に対して正式な内定通知を行い、入社への意識を高めるための公式な式典。


(概要)


・開催時期: 多くの企業で「10月1日」に開催される。

・所要時間: 式典自体は1~2時間程度、その後の懇親会を含めても半日ほどで終わることが一般的。


(目的)


・正式な労働契約(内定)の確認

・同期や社員との交流を通じた入社意欲の向上と不安の解消


(当日の流れ)


・経営陣からの挨拶・講話: 社長や役員からのメッセージ

・内定証書の授与: 正式な内定通知書の受け取り

・内定者の自己紹介: 1人あたり30秒~1分程度の簡単なスピーチ

・今後の案内・事務手続き: 入社までのスケジュールや提出書類の説明

・懇親会: 同期や先輩社員との交流会


だそうです。


完全に馬鹿げていて、間違ってますね?


「1953年頃に始まったとされる内定式は、日本経団連(旧・経団連)が定める倫理憲章(採用選考に関する指針)において、正式な内定日を「10月1日以降」と定めたことを背景に、多くの企業で10月1日当日または10月上旬に開催されるようになった」


そうです。


昔は、ここまで馬鹿げたことをやっている企業は少なかったと思いますが、採用時期を早め、内定式などで逃げられないようにする、、、という発想は余りにも稚拙としか思えません。


10月1日は内定式があるので、多くの大学4年や高校3年の教室では半数以上が休むということもあるようです。


優秀な学生が欲しい、、のに、授業を休ませて学習をさせなくする、、ここまで矛盾したことを笑顔でやっているわけです。


そして、さらに問題なのが、一般企業だけでなく、県庁や市役所などでも内定式をやっているという事実です。


営利企業については絶対的事例主義と意味のない競争の強迫観念により1%くらいは理解できないもありませんが、公共機関が学校を休ませてまで、こんなことを行っているという知性のなさに呆れてしまいます。


勿論、企業側も学生側も、 ” 内定式 ” に何の意味もないことはわかっていますし、ムダな費用も時間もかかります。


それでも、誰もが間違っているとわかってるにもかかわらず、殆どの企業が内定式を行うため、


「内定式のない会社はヤバイ会社・・・」


などということも言われたりするようにまでなっていたりします。


もし日本の企業の経営者に、ほんの少しの知性か知能があれば、


「内定式? そんなもの要らないでしょ?」


で終わる話だと思うのですが、、、、

 

個別最適化教育にかかわる「中学校」の存在意義について

今回は、 ” 個別最適化教育にかかわる「中学校」の存在意義について ” というテーマで少しだけ考えてみます。

 

” 個別最適化教育にかかわる「中学校」の存在意義について ”



すべての学習者に最適な「教育」というモノはありません、学習者の「知識・スキル・マインド・目標・環境・・・」など違いますから、、、


そこで考えられたのが「個別最適化の教育」になります。


教育・学習についてある程度論理的に考える人(かつ倫理観が少しでもあれば?)なら大概そう発想しますね?


古代~近代の哲学者は勿論、ケラーの PSI( Personalized System of Instruction ) から、インストラクショナルデザイン、現代の AI によるエージェント的なモノまで多くの「個別最適化」が考えられてきました。


これを ” 日本の学校教育構造のなかに組み入れよう、、 ” などと考え、提言する人もいますが、


「個別最適化」と「日本の学校構造」、特に「義務教育」の構造とは ” 二律背反 ”的な状況にあるようにも思います(多分誤解しているとは思いますが)。


「個」の集まりが「集団」ではありますが、「集団」においての「個」と考え、その中での「個別最適化」というのは非常に困難です。


何が言いたいかというと、学校という集団に対する「個別最適化の教育」というのはあまり現実的ではないし、たとえ実施したとしても効果・効率が上がるとは考えにくい、、、ということです。


特に、「義務教育」である小・中学においては、「個別最適化」の意義はあまり見出せません。


小学校の低学年においては「集団」に対する現在の教育でしか対応できないと思います。そして自走しだす小学校高学年~中学において、現在の「集団」への共通教育が最適ではないことは確かですが、かといってその段階の学習者への「個別最適化の教育」を行うということは、


” 「小学校高学年~中学校」では学校に毎日来る必要もない ” 


という結論に行きつくように思います。


現在の日本の法律(?)では小学校・中学校は「義務」とされていますから、基本的に(病気などを除いて)全ての生徒が「集団」として学習をすることが強制(?)されます。


その「集団」を対象とした教育のなかで「個別最適化」は矛盾している、、、と考える人もいると思います。


とはいえ、「集団」の構成者に対して、「個別最適化の教育」を行うことはできます。


しかし、それには、現在の「学校という状況」を大きく変える必要があります。


「学校という状況」というのは、現在行われているような1時間目は「国語」2時間目「算数・数学」3時間目「体育」、給食、4時間目「理科」、、などという形態のことです。


この形態を維持しながら「個別最適化の教育」など行えるはずがありません。

 

「学校」で「個別最適化の教育」を行うには、現在の形態や構造を大きく変え、


”「学校」を単純に ” 場 ” としての提供だけにすること ”


が必要です。


しかし、こういった考えはこれまでの「学校教育」を受けてきて、それこそが「学校」であり、それが「教育」といった考えの大多数の人には受け入れられないでしょう、、、


「学校」というのは、「決まったカリキュラムに添い授業を受ける」「先生が教壇から教える」「苦手な科目も嫌がらずやる」「既にわかっていることでも寝ずに授業を受ける」、、、、


というような認識が圧倒的マジョリティですから。


もし、革新的な考え(マトモなというだけの意味)を持つ人が文部科学省の大臣にでもなって、「個別最適化の教育」を本格的にやろうとすると、


小学校はともかく、中学校の教育という意味での存在意義は確実になくなります。


そう考えると、「義務教育」として”教える”のは小学校まで、、、という考えも強ち空論でもないようになるかもしれません。


中学校は「義務」ではなく、高校・大学・職場へ行くための準備期間として、行って学習してもいいし、行かなくてもいい、、、、(当然そうなれば高校・大学も今より数段の専門性を備える必要がありますが)。


などと、思ったこと(?)だけを羅列しているので、相変わらずとりとめのない文章になっていますが、


” 「学校」という現在の形や状況を保ったままで、「個別最適化の教育」などできるわけがない ”


ということです。

 

授業は減らしてもいいが、ムダは増やすな!

今回は、「授業は減らしてもいいが、ムダは増やすな!」 というテーマで少しだけ考えてみます。

 

授業は減らしてもいいが、ムダは増やすな!



文部科学省がまたまた(何度も何度も)意味不明のことをやっていて、多くの人たちがそれに反応している世界があります。

 

「小・中学校の授業数、各教科一律に3~4%削減 情報教育拡充で」


2030年度以降に始まる次期学習指導要領で情報教育が拡充されるのに伴い、文部科学省は、

小学3年生~中学3年生が1年間で学ぶ国語や算数など各教科のコマ数について、一部を除き現在から一律3~4%ほど削減する方針

を示した(詳細な削減幅は、次期指導要領の内容を告示する26年度末までに決める)。


年間のコマ数は、小3なら全体で980コマ、小4~中3は1015コマ(小学校は1コマ45分、中学は50分)などと法令で決まっている。教科ごとにも学年別に国語175コマ、理科105コマなどと定められている。

次期指導要領では、

小学校は3年生以上で「総合的な探究の時間」(総合的な学習の時間から名称変更予定)に「情報の領域」

中学に「情報・技術科」を新設

全体のコマ数は変えず、他教科のコマ数を削減する。

文科省がこの日、小3~中3で各教科のコマ数を一律3~4%ほど減らす案を中央教育審議会(文科相の諮問機関)の特別部会に示し、おおむね了承された。一方で小・中の道徳や、中2・中3の音楽といった、年間35コマ(週1コマ)以下の教科は減らさない。

コマ数が減る教科については、教科間や学年間で重複する内容を整理するなどして、必要な学習内容は維持する。


とのことで、これに対して、


「国語を減らすと、全ての科目の学力が落ちる」


とか、


「国語より英語を減らせ、、、」


などとSNSを中心に批判が出ているようですね?


まぁ、双方にそれなりの考えや思いがあることなので、一概にどちらがいいとか悪いとかは言えませんが、個人的には、


「何の授業のコマを減らしてもたいして変わらない」


し、それよりも、


「 ” 探究の時間 ” などムダ以外の何物でもない」


と思う次第です。


今回提言されているのが ” 小3~中3 ” ということなので、影響は殆どないのではと考えます。


これが、” 少1~ ” となると断然ダメに傾くのですが、” 小3~中3 ” だと殆どの人が自分で学習ができるようになっていると思うからです。


勿論、学習者への様々なアプローチは必要ですが、 ” 現在のような授業 ” のコマ数を多少減らそうが増やそうが殆ど影響はないと思います。


しかし、下らない時代のトレンドである ” 探求 ” を持ち出してくるのは話が違います。


 ” 探求 ” や ” 発見学習系 ” のようなモノは ” 上の学校に行くことが目的の学習者たち ” には確実に ” ムダ ” でしかありません。


そんなモノは大学や大学院に行ってからおこなえばいいのではないでしょうか?


また、「情報・技術科」という科目についても、はやく始めたからといって、将来、ウォズニアックやトーバルズみたいな人が出てくるはずもありませんね(わかりませんが)。


” 授業はいくら減らしてもいいけれど、ムダなことをやらせる時間は増やしてほしくない ”


と、思いました。

 

ゴーレム効果(Golem effect)などの信憑性 ~ 心理学も科学 ~

今回は、「ゴーレム効果(Golem effect)などの信憑性 ~ 心理学も科学 ~」 というテーマで少しだけ考えてみます。

 

「ゴーレム効果(Golem effect)などの信憑性 ~ 心理学も科学 ~」



人の心理というのはほんとうに不思議なもので、自分自身が意図しなくても自然とそう考え、行動してしまう、、、ということが多々あります。


以前記した「ピグマリオン効果」は教育だけでなく、いまだにあらゆる分野でよく取り上げられます。


その「ピグマリオン効果」の逆の「ゴーレム効果」についてはバーナード・ショーが扱わなかったせいか(?)、あまり語られません。


しかし、量的(?)に考えると、「ゴーレム効果」を受ける人の方が圧倒的に多いと思うのです。


(ゴーレム効果:Golem effect)


他者からの低い期待や否定的な評価を受けることで、その人のパフォーマンスや成績が実際に低下してしまう心理学的現象。

アメリカの教育心理学者ロバート・ローゼンタールが1969年に提唱。

「ピグマリオン効果」の対義語であり、自己成就予言の一種。

由来ユダヤの神話や伝承に登場する、泥から作られた空想の巨人人形「ゴーレム」が名前の由来。ゴーレムは呪文で動くものの、額にある文字を消すとただの泥に戻ってしまうことから、他者からのネガティブな関わりによって能力が失われていく様子に例えられている。

教師と生徒を対象にして実験が行われた結果は、教師の期待度が低い子供は、次第に成績が低下していった。この結果を考察して、ゴーレム効果を提唱。


(ゴーレム効果の種類)


・絶対的ゴーレム効果:上司や指導者などの特定個人から低い評価や否定的な言葉をかけられ続け、本人の成績が下がる現象。


・相対的ゴーレム効果:本人の能力が高くても、評価の低い集団やチームに所属することで、業績や成果が下がってしまう現象。


さて、その信憑性は? というと、やはり曖昧ですね。


「理論としてはあるが、実証研究での再現性や効果の大きさには慎重な議論が続いている」というのが学術的な位置づけだそうです。


それはそうですよね、、、、


心理学全般の宿命というか、課題は、


” 理論を証明するための実験は行っているが(n数は少ない)、かならずしも仮説どおりにはならないことを他者が経験、実感する、、、”


ということです。


いまでも「心理学を科学とは認めない」という人は多くいます。


しかし、ある一定の条件下で実験を行い、それが証明されたのであれば、その理論は正当なモノであり、「科学である」と思うのです。


様々な心理学の理論や実験を知る前は、私自身も「心理学なんて・・・」と何となく思っていました。


確かに、あまりにもいい加減な心理学の理論(都市伝説擬きの)もありますが、世に出ている心理学の理論のほとんどは仮説の証明がちゃんとされた「科学」であるように思います。


今回取り上げた「ゴーレム効果」も「ピグマリオン効果」も多くの人が実感してきたモノの1つではないでしょうか?


勿論、天邪鬼な思考の人たちは外部からの影響に対抗しようとして、逆の結果をだすこともあると思いますが、、、


「ゴーレム効果」「ピグマリオン効果」というのは、教育の分野では、教える側の人たちの心理にスポットが当てられます。


しかし、教育を実施する側の人間は敢えてそういった意識を無くすことが求められます。


学習者の真正な評価を行い、その評価をもとにシステマティックに教育の方略をデザインすることが必要です。


誰だって、「やればできる子」なんです。


それを、見た目、言葉使い、態度、、、などなどで意味不明の評価を下し、「ゴーレム効果」「ピグマリオン効果」を引き起こしてしまう、、、ということは避けなければなりませんね、、、

 

「惰性」で続けることの正義

今回は、 ” 「惰性」で続けることの正義 ”  というテーマで少しだけ考えてみます。

 

” 「惰性」で続けることの正義 ” 



” 「習慣」はイイ  ”

” 「惰性」はダメ  ”


となんとなく思っている人は多いと思います。


「だらだらやるならヤメテしまえ!」

「惰性でやるな!」

「モチベーションが大事」


「惰性」というコトバは一般的にネガティブなイメージで捉えられますが、教育・学習という行為においては、それほどダメなことではないように思ったりもします。


(習慣)


自動化された行動の仕組み

習慣は比較的中立的な概念

「なぜやるのか」を意識しなくても行動が再現される

習慣には方向性が含まれていない


(惰性)


それまでの流れによって続いている状態

物理学の「慣性」から来た言葉

本来は、今まで続いていたから続いているという意味

習慣よりも「継続の勢い」に焦点が当たっている

 

(教育・学習を「惰性」で続けること)


・「主体性」 → 「習慣」 → 「惰性」 という形態をとることが多い

・一般にはあまり肯定的に語られない

・「常に高いモチベーションで学び続けている」のではなく、「やる気がなくても続けられる状態」を作ることは重要


(メリット)


・モチベーションへの依存を減らせる


「やる気が出たら勉強する」というスタイルは不安定であり、自動化された学習を行うことができる

意志力の消耗を減らすことができる

「勉強したいから勉強する」ではなく、「勉強するのが当たり前だから勉強する」という状態で


・学習の総量を確保できる


総学習量を大きくすることができる

「何もしない日」を減らす効果


・理解の深化には時間が必要


学習には「寝かせる」過程があり、今日理解できなかったことが後日理解できることがある

学習との接触を続けていると、知識が繰り返し活性化され、徐々に知識同士のネットワークが形成される

認知構造が変化する


・アイデンティティ形成につながる


継続的な行動は、「私は勉強する人間だ」という自己認識を生む

行動が安定する


・惰性は創造性の土台になる


創造的な成果の大部分は膨大な基礎知識の上に成立するため、続けることで、知識の蓄積が起こる

創造性は惰性の反対側にあるのではなく、しばしば惰性による蓄積の上に生まれる


といった感じです。


学習者が常に主体的であり、モチベーションを維持できるなどということはありませんし、「継続」においては「惰性」が重要だと思います。


人は「疲れ」「嫌になり」「面倒くさくなり」「やめたがり」ます。


やめてしまえば、そこでお終いだということはカリスマ経営者に言われなくても誰もがわかっています。


勿論、” 確実に必要のないことを「惰性」で続ける ” 必要はありませんが、それがわからないのであれば、「惰性」で続ける必要もあると思いますし、それが学習になります。


” 「惰性」で続けること ” は結構な ” 正義 ” です。


教える側の人は学習者の「惰性」を嫌いますが、その意識は変えるべきだと思います。


勉強でもスポーツでも仕事でも、「惰性」の重要性がもっと語られるべきではないでしょうか・・・


「マインドではなく行動」


などと言うにも係らず、「惰性は嫌う」というのは、人がもともと持って生まれた考えではないように思うのですが・・・

 

「勉強しなさいと言ってはいけない」論

今回は、 ” 「勉強しなさいと言ってはいけない」論 ” というテーマで考えてみます。

 

「勉強しなさいと言ってはいけない」論



親が子供に、「勉強しなさい」と言ってはいけない、、、ということが常識のようになって長い年月がたちます。


これまで何度もそれぞれの波がきて、その度にこの ”つまらない常識 ” が変わってきました。


(「勉強しなさいと言うべきだ」派)


・子供は未熟である

・将来の利益を十分に理解できない

・放っておけば楽な方へ流れる

・「歯を磨きなさい」「道路に飛び出すな」と「勉強しなさい」は本質的に同じであり、親が子供を導くのは当然。

・勉強しなさいと言わない親は無責任である


(「勉強しなさい言うべきではない」派)


・学習は本人の主体性が重要

・外発的動機づけは長続きしない

・強制は学習嫌悪を生む

・「やらされる勉強」より 「自分でやりたいと思った勉強」の方が 学習の深さや継続性が高い

・「勉強しなさい」は学習意欲を奪う言葉


といったことが永遠に繰り返されています。


そして、今の時代は「勉強しなさいと言ってはいけない」に寄っているわけです。


教育心理学の世界でも、偉い先生たちがそれぞれの主張を理論として纏めてきた結果、今の時点では「勉強しなさいと言ってはいけない」が前提として、さてどうやれば「勉強させられるか?」ということに行きつきます。


「東大生の親は”勉強しなさい”とはいわない・・・」


などという ” どうしようもないアンケート結果でできた本 ” なども存在します。


また、「アンドラゴジーとペタゴジー」などとからめたりもします。


親が子供に「勉強してほしい」と願うことはごく当たり前のことのようにも思われますし、また、子供も一人の人間だという考えに立てば、「何事も強制することはよくない」というハザマの問題ですね?


このことをパラドクスと捉えるかどうかは別にして、結局は結論のない議論のようにも感じます。


親も子供も、それぞれの環境も、すべてが違うといった条件で、「勉強しなさいと言ってはいけない」か「勉強しなさいと言うべきだ」のどちらかを常識とするには無理があります。


それに、「勉強」といっても、子供は将来はサッカー選手になりたいと思っているのに、親が東大へ行くための「勉強」を強制してもしかたがない(?)ですし、とはいえ、漢字も書けず、簡単な英単語も知らなくては日常生活もままならない、、、かもしれません。


つまるところ、この議論は親のジレンマによるものですね。


また、この議論は「子供を親の望むレールの上に置いておきたい」という根本的なエゴから生まれるもののようにも思います。


たとえ東大に合格するほどの勉強をした子供であっても、成績が落ちたり伸び悩んだ時には親は「勉強しなさい」と言うかもしれませんし、コンビニで200円のおにぎりを買おうとして150円を出す子供に「算数なんて学ばなくていい」という親もいるかもしれません。


このごく当たり前(常識)になっているつまらない議論に対する私見は、


「勉強しなさいと言ってはいけない」


でも、


「勉強しなさいと言うべきだ」


のどちらでもなく、


「好きにすればいいし、そんなことで子供の考えや行動は対して変わらない」 

 

「言っても、言わなくても子供の将来に大きな影響はない」


「どちらも常識などと語られるべきものでもない」


のではないか? ということです。


親から「勉強しなさい」と言われて勉強する子供もいるでしょうし、しない子供もいます。


親から「勉強しなさい」と言われなくても勉強する子供もいますし、しない子供もいます。

 

G-PDCA だとサイクルにならないでしょう?

今回は、「G-PDCA だとサイクルにならないでしょう?」 というテーマで少しだけ考えてみます。

 

G-PDCA だとサイクルにならないでしょう?



日常に追われ、油断しているうちに、またまた意味不明のワードが世の中を駆け巡るようになっていました。


それは、” G-PDCA(G-PDCA)サイクル ” というモノ、、、


(G-PDCA サイクル)


従来のPDCAサイクルの先頭に「G(Goal:目標設定)」を加えた、明確なゴール達成を目指すためのフレームワーク。


(5つの要素)


・G (Goal):何を達成したいのか、目的と期限を具体的な数字で決める

・P (Plan):ゴールに到達するための具体的な計画を立てる

・D (Do):計画通りに実行する

・C (Check):実行結果を事実ベースで検証・評価する

・A (Action):検証結果から次の行動や仕組みの改善を行う


PDCA:すでに目的が決まっているルーティン業務の品質向上や継続改善に向いている。起点:Plan(計画)。


G-PDCA:新規施策や成果が求められる場面で、最初にはっきりとした「ゴール」を置くことで行動のブレを防ぐ。起点:Goal(目標)。 


G-PDCAは、「目標を明確化する」「実践する」「評価する」という設計には有効。


評価後は、「目標そのものが適切だったか」「目標達成基準を変えるべきか」を検討する必要がある。


単純な円環というよりは螺旋(スパイラル)型の改善プロセスとして理解した方が実態に近い。


「OODA」に近くなり、「目標自体が変わる」「環境が変わる」「学習者が変わる」ため、目標そのものを何度も再定義する運用になる。


状況適応型のOODAループ(Observe、Orient、Decide、Act)に近い。


とのことです。


OODAループが思いのほかトレンドにならなかったために、 ” どこかのいい加減な誰か ” が考えたのでしょうが、、、、Goal と言ってしまうと、「それで終わり」ですね?


「サイクルになっていないのに、、、、」


PDCAがサイクルだったため、サイクルとつけた、、感じです。


そして、教育研修関連業者が飛びついて、


「PDCAサイクルではダメで、これからはG-PDCAサイクルだ!」


などと持ち上げたようですね、、、


お金のためなら例えデタラメであるとわかっていても(わかっているのかどうかも怪しいですが)、なんでもかんでも、、、


まぁ、このGoalというのを「形成的評価」と捉えれば、それはサイクルとして成り立ちはしますが、G-PDCA だと、永遠に「形成的評価」になり、「総括的評価」がありません。


「目標」だけあって、「目的」がない

 

わけです。


営利企業として、教育・研修などを生業とし、「お金儲け」をすること自体に問題はないとは思いますが、99%の会社がこういったいい加減なことばかりをその基盤にしているという事実が辛すぎます。