louribot’s blog

学習成果の出る企業内教育(教育全体)についての考察を語ります

「人材育成と即戦力」 ~ 日本の「就活」と「採用」の不思議 ~

今回は、「人材育成と即戦力 ~ 日本の「就活」と「採用」の不思議 ~」ということで考えてみます。


この国の新卒の「就活」と「採用」、そして「人材育成」と「即戦力」という思考には、あまりにも矛盾があり、そのことも影響して(それだけではありませんが)、日本企業の国際競争力は右肩下がりで落ちて行っていると考えています。


まず、その一番の原因は、


「就活の開始時期」


つまり、企業側が採用を開始する時期の問題です。

 

「就活ルール」の廃止がどうのこうの言っていますが、あってないようなルールなので大した影響はないですね?


「大学4年になってから、就職先は考えよう」

 

などという時代は、大昔の話で、現在は大学3年になるやいなや「就活」が始まります。


”大学3年” ですよ?

 

大学3年といえば、やっと ”専門知識” を学び始める時期です。


”専門” 分野の知識も特性も何もわからない人を ”採用” する。


これほどバカげたことがあるでしょうか?

就活 即戦力

以前、企業の「採用」については大学時代の成績を考えて、、といった内容を記しましたが、もしそれをやろうとしても、現実世界では ”一般教養” の成績データしかない状況です。

まぁ、企業側が、それが ”採用基準” で、入社してからの ”育成・教育” で優秀な社員にする(現状では全くできていないですね?)というなら、それでもいいのですが、その一方で、企業は事あるたびに、


「即戦力」


と連呼します。


「理工系の大学3年生にどのような”即戦力”があるでしょう?」

「人文系の大学3年生にどのような”即戦力”があるでしょう?」

(大企業のご意向で、この国の大学は「理工系」の学部だけになりそうですが、、、)


この国でも徐々に 中途採用 の枠が広まってはいますが、新卒の採用に比べればまだまだですね?


また、昔から「日本は終身雇用」などと言われていましたが、実際の企業では歴然とした”定年制度”があり、”終身”雇用してくれるところなどほとんどありません。それでも、昔は50歳で定年になり無職となったとしても手厚い”年金制度”に守られて普通に暮らしていけたわけです。

ところが、年金制度の開始に問題(自分の収めた税金が自分に使われるわけではないという)があったことと、経済情勢、政治、、、いや、いや、この辺でやめておきましょう。


「即戦力が長く勤めて成果を”すぐに&永続的”に出してくれる」

 

ことが企業の希望なわけです。


あまりにも都合がよすぎますね?


とにかく、


「即戦力」が欲しいはずの企業が、なぜ ”専門課程になったばかりの大学3年生” を「採用」するのか?


という矛盾です。


「青田刈り」というコトバがありましたが、

 

早く開始すればするほど優秀な学生が採用できる、、、

 

みたいな ”迷信” を企業はずっと信じているようです。

 

”事例主義” ”横並び” をずっとやっていて成果が出たでしょうか?

採用時期を早めて日本企業はどうなったでしょうか?”


「即戦力」を期待するのであれば、中途採用なり大学3,4年の”専門課程の成績”を最低限考慮するべきですね?


そして、”効果的・効率的”「人材育成」「企業内教育」を行えば、アメリカや台湾の企業にも負けないような会社に戻れる(出てくる)、、、と思うのです。


これまで散々記してきたように、「人材育成」「企業内教育」にも数々の問題があります。

しかし、その前に、”迷信” に頼った採用をやめることから始めないと、今のまま右肩下がりで最後には破綻してしまうように思うのです。

「過去問は大事!」

今回は、某超有名塾講師さん(というよりタレントさん)が、

 

「受験対策に過去〇年分の入試試験を勉強することに、根拠はない・・・」

 

という意味不明なことを言っていたので、「過去問は大事!」ということについて考えてみます。


入試だけでなく、資格試験においても、「過去問」というのは軽視すべきモノでは全くありません。


実を言うと以前は、そう考えていない時期もありました。

 

「過去問なんて、所詮過去のモノ」

「今年も、来年も同じ問題が出るわけがない!」

 

と、

確かに、全く同じ問題が出題されるということは、ほぼありえないでしょう?

過去問

しかし、

「過去問」には、テストの傾向レベル前提知識、、、といった多くの判断情報が含まれています。


(メリット)


・問題の傾向を把握する

過去問を解くことで、その学校が何を重視して問題を出しているのか、どのような問題が出る傾向にあるのかを把握することができる。


・実力の確認

自分がどの程度の実力を持っているのかを確認するためにも過去問を解くことは有効。学習の進捗状況を確認する手段としても利用できる。


・時間管理の練習

特に筆記試験では、限られた時間内で問題を解く力が求められる。過去問をタイマーを使って解くことで、時間配分の練習をすることができる。


・試験に慣れる

過去問を解くことで、試験に対する緊張感を和らげ、試験に対する恐怖心を減らすことができる。


・不得意な分野を見つける

過去問を解くことで、自分の苦手な分野や課題を見つけることができる。それを基に対策を立てることができる。


(デメリット)


・過去の傾向に囚われすぎる

過去問を解くことで過去の出題傾向を把握することは有益だが、それに囚われすぎると新しい形式や視点の問題に対応できなくなる可能性がある。


・過去問の解答に依存しすぎる

過去問の解答を見て理解したつもりになり、自分で考える力が鈍る可能性がある。


・完全な再現は難しい

過去問はあくまで過去の試験で出題されたものであり、それがそのまま次の試験に出る保証はない。過去問だけを頼りに勉強すると、思わぬ形の問題に対応できなくなる可能性がある。


・自信過剰になる

過去問を解くことができるようになると、自分の実力を過大評価してしまうことがある。それにより、他の重要な学習がおろそかになることもある。


どう考えても、デメリットよりメリットの方が勝っていますね?


「過去問」を完璧に解ける学力があれば、余程のミスをしなければ合格できるでしょう?


それを「根拠がない」と、、いくらメディアの前で ”賢く” みせたいという状況があったとしても、、、、こういう人には「教育・学習」について語ってほしくないですね、、、。


まぁ、基本的にビデオで ”ご講演座学” をやってる時点で「教育・学習」が何なのかなどわかっていないとは思うのです。

 

勿論、タレントさんですから ”目立ってナンボ” です。しかし、そんないい加減なコトを真に受けて試験を落ちる人たちもいるわけです。


「テストに合格したければ、テストを解く」

 

それが、「学習」における ”基本中の基本” です。

「スパルタ教育」が復活している、、、らしい

遠い昔、「受験戦争」だとか「スパルタ教育」なんていうコトバが毎日のようにメディアで扱われていた時代がありました。

 

そうです、「昭和」ですね?


もう何十年も前に ”死語” となったはずの「スパルタ教育」が復活(復権しているとのニュースを目にしました。

 

ということで、今回は「スパルタ教育」について考えてみます。


嘗て「文武両道」を謳っていた進学校(中高校)が、東大等への進学実績を上げるために「スパルタ教育」を行っている、、、という記事でした。

勿論、私立の学校の話です。

全寮制中高一貫、、、、まぁ、ありがちな環境です。


こういった学校に行く(行かされる)生徒の殆どは、ぶっちぎりのトップクラスではなくその下に位置する子供たちです(想像ですが)。

 

幼児の頃から塾に通い、スポーツなどやることもなく、朝から晩まで親に「勉強」を強制されている、、、といったイメージです(違うこともあるでしょうが)。

もしそのイメージがあっているのなら、全寮制で、朝から晩まで「勉強」を強制される学校に入っても、それなりに順応できるようにも思います。


それが「良いことか?」「悪いことか?」ということは今回は考えません。

 

誰にもその人なりの「事情」があり、「環境」があり、「状況」があります。

・開業医の家に生まれた人

・兄弟全員が東大卒の人

・学歴が無く苦しい思いをした親を持つ人

スパルタ教育

まぁ、しかし、「スパルタ教育」というワードはあまりにもネガティブですね?


(スパルタ教育(Spartan Education))


古代ギリシアのポリス・スパルタで行われていたとされる教育。

極めて厳格かつ過酷な訓練を施すことが特徴。自己が帰属する組織への忠誠心の涵養や、軍事訓練、歌唱、舞踊、狩猟など総合的な社会学習を主眼とする。
スパルタで兵士養成のために幼時から施したきびしい軍事訓練や教育。転じて、そのような厳格な教育法


賛成派の意見としては、

スパルタ教育によって自己管理能力や自己制御力、集団行動のルールや社会性を身につけることができる。厳しい状況下での体験は人間の成長を促し、困難に対する耐久力や逆境に立ち向かう力を養うとも言われている。


(メリット)


・自己管理能力の向上

しっかりとしたルールや規律の中で行われるため、自己管理能力や自己制御力が鍛えられ、自分自身で自分の行動をコントロールする能力が向上する可能性がある。


・困難に対する耐久力

厳しい状況下での体験は人間の成長を促し、困難に対する耐久力や逆境に立ち向かう力を養う。


・社会性の獲得

集団で行われることが多いので、他者と協調して行動することの大切さや、社会的なルールを理解する機会を得ることができる。


・目標達成能力の向上

高い目標設定と厳しい評価が特徴。目標に向かって努力し続ける能力や、困難を乗り越えて目標を達成するためのスキルを身につけることが可能となる。


・自尊心と自信の向上

厳しい試練を乗り越えることで、自分自身の可能性を感じ、自尊心と自信を向上させることができる。


反対派の意見としては、

スパルタ教育は子供の自主性や創造性を奪い、精神的にも肉体的にも過度なストレスを与える可能性がある。一律の厳格なルールに縛られることで、個々の子供の成長や可能性を阻害してしまう可能性もある。

 

「主体性のない勉強」で難関大学受験に合格することは難しい。子どもに無理やり勉強させても、学力向上・合格に意味はない。

 

子どもが主体性をもっておこなう勉強にのみが、学力向上・合格に寄与できる。主体性な勉強ナシに、目標を達成したり、受験を突破することは難しい。

スパルタ教育は受験合格に逆効果。


ということで、「スパルタ教育」の是非は、今の世の中ではほとんどデメリットが支持されるということはわかります。


しかし、現実には、学校でも会社でも、


「目標達成」

「あるべき姿」

「理想とのギャップを埋める」


なんていうことが語られます。


「スパルタ教育」を否定して、「目標達成」を肯定する、、というのがどうにも理解できないのです。


そして、その「スパルタ教育」の内容を読むと、朝一から「テスト」一日に何度も「テスト」、、、


「テスト効果(Testing effect)」

単に情報を聞いたり書いたりするのに比べ、テストを繰り返すことで情報を思い出す(検索する)行為の結果として記憶が強化される。


は、「学習の王道」ですから、方略自体は否定されるモノではないと思います。

公文式」が効果があるのは「テストだけ」だからですね?


寮に缶詰めで、「学習」し、「テスト漬け」、、、で、「成果」が出ないわけはないです。

 

しかし、こういった学校のやり方には大きな欠点があります。

そうです、

「授業」をやっていること

です。

 

私立とはいえ学校なので、国からの指導要綱に沿わないといけない、、、

ということで、日中は最もムダな”ご講演座学”を行うわけです。

 

もし、私がこういった学校の校長なら、”ご講演座学”の授業などせずに、すべて”自習”にしますが、、、、、

それができれば、進学実績は格段に伸びることでしょう?


と考えると、


もし、医学部や東大に入学すること「生徒本人の真正な目標」で、親がサポートできるなら、このムダな部分や、寮での時間的制約(洗濯や掃除、風呂の時間)を取り除いて、、、

 

学校など行かずに、家や塾で勉強すればいい、、、ようにも思います。

 

とはいえ、それでは学校制度が成り立ちませんし、そこまで明確な「目標」を自分で持っていて、実践できる人も多くないでしょうから、そういうわけにはいきませんね?


このような「スパルタ教育」肯定も否定もしませんが、何につけ「勝ち組」「負け組」に分けられる現代では、、、、学校も企業も、横並び、事例主義では頭一つも突き抜けられないということですね。

「逆転の発想」~ IDを目的にする ~ ということ

今回は、” ID(インストラクショナルデザイン)を普及させる ~逆転の発想~  ” ということについて考えてみます。


通常、というより ”正論” として、


ID(インストラクショナルデザイン)は、”手段” であって、”目的” ではない!


と言われます。

まぁ、至極当たり前のコトですね?


しかし、そのあたりまえのコトを、あたりまえに伝えてきた結果、ID(インストラクショナルデザインは普及するどころか、今や衰退の一路を辿っているように私には思えます。


大森先生鈴木先生熊本大学 ”教授システム学専攻” を作られた頃のことは書籍でしか知りませんが、おそらく、当時は世間的にもかなりのインパクトがあり、一定数の人々や企業にID(インストラクショナルデザインが認知されるきっかけとなったのではないでしょうか?


ところが、20周年を迎える前に・・・・・となり、

逆転の発想

このところは、教育関連業者や、学会のホームページくらいでしかID(インストラクショナルデザインというコトバを目にすることがなくなりました。

 

X(Twitter)で、インストラクショナルデザイン で検索してみても、ほとんどヒットしませんね?


私的には、偶然知ったID(インストラクショナルデザインを10年近く勉強し、実践してみたりした結果、不変の理論ではありません(環境に合わせて教育・学習も変化していくので、当然ですが)し、やりようによってはデメリットがあったりもしますが、


ID(インストラクショナルデザイン)のベースがない”教育・学習”などありえない!


と思っています。

 

そして、現実に


「学習者に学習してもらう」=「教育」


ということは、本当に難しいことです。


私は、「メーガーの3つの質問」に感銘を受けて、今も「教育・学習」についていろいろと考えたり、学んだりしているのですが、


・Where am I going? (どこへ行くのか?)

・How do I know when I get there? (たどりついたかどうかをどうやって知るのか?)

・How do I get there? (どうやってそこへ行くのか?)


忙しい世の中、そういう人ばかりではないですね、、、

しかし、どうにか ID(インストラクショナルデザイン)を普及させる方略はないものか? といつも考えています。


鈴木先生がよく言われていたID(インストラクショナルデザイン)の普及方法に、

 

「ID(インストラクショナルデザイン)というコトバを使わずに、最終的に成果をだしたら、これはID(インストラクショナルデザイン)というんです、、」

 

と明かす、というのがありました。


はじめてそれを聞いた時は、


「なるほど!」

「確かに!」

「流石だ!」


と思ったものです。

しかし、それは私のようなID信者(?)になった人間にだけ響くことで、世間様には聊かインパクトが弱すぎたように思うのです。


そこで、「逆転の発想」です。


ID(インストラクショナルデザイン)は、 ”手段” であって、”目的” ではない!

 

ではなくて、


ID(インストラクショナルデザイン)が、”目的” である!


と変えてみるのはどうだろう? と思っているのです。

 

とにかく、「ID」「ID」「ID」「ID」「ID」「ID」と、何かにつけて「ID」というコトバを連発する!


それで、

 

「IDって何?」

 

「DXと同じようにIDが目的!」


という方略の方が、今のトレンドに振り回される世の中ではいいように思うのです(正論では勿論ないし、そんなことまでしなくても、、、とは誰もが思うでしょうが、、、)。


旧日本的に、「でしゃばらない」「品をもって」「控え目」なんてやっていたら、おそらく近いうちに、ID(インストラクショナルデザイン)は日本から消えて無くなってしまう、、、くらいの危機感を持っています。


工業時代→情報時代→AI時代、、、に「”効果的” で ”効率的” な学び」を届けたいですね、、、

「ジョブ・クラフティング(job crafting)」や「経営者目線」

今回は、研修や企業内教育でよく使われる ”「ジョブ・クラフティング(job crafting)」「経営者目線」” について考えます。


(ジョブ・クラフティング(job crafting))

 

従業員一人ひとりが仕事に対する認知や行動を自ら主体的に修正していくことで、退屈な作業や“やらされ感”のある仕事を“やりがいのあるもの”へと変容させる手法のこと。

会社や上司の指示・命令ではなく、働く人々が自分自身の意思で仕事を再定義し、自分らしさや新しい視点を取り込んでいくことで、モチベーションが高まり、パフォーマンスの向上につながるという考え。

 

・作業クラフティング

仕事のやり方を工夫して仕事の内容を充実させることを目指す。


・人間関係クラフティング

仕事で関わる人への接し方、コミュニケーションを工夫して良好な人間関係を築き、仕事に対する満足感を高める。


・認知クラフティング

仕事の捉え方や考え方を工夫し、仕事にやりがいを持てるようにする。


といった感じです。


「やりがい」とか「やらされ感」というキーワードは、こういったモノの基本中の基本ですね?


「やりがい」「やらされ感」、、、そういうワードを聞かされると、

 

「確かに・・・・」

「そうだなぁ・・・」

 

と思う人も結構いるのかもしれません。


ところが、こういった研修や話を真に受けてクラフティングなどしようものなら、、、いきなりのストップがかかります。

 

それはそうです、会社においてはそれぞれの地位役割があるわけですからね?


こういった研修や企業内教育を受けさせる目的は、当然のように「モチベーション、生産性の向上」を期待して、だと思います。


しかし、本当にこういった考えを持たせるには、そういったことができるだけの役職ポジションが必要になります。

 

つまり、コーチングと同じで ”経営層だけ” に実施すればいいことです。

 

それを、「管理職研修」の中に入れたり、その研修で受けた内容をそのまま自分のチームや部下に、、、などということをするから逆の効果(モチベーション、生産性低下)を招くわけです。

ジョブ・クラフティング

また、「ジョブ・クラフティング(job crafting)」と同じように「経営者目線」というのも一般の社員に対して発するコトバではありませんね?

 

(経営者目線)

 

企業を経営する人の立場に立って物事を考えたり、行動したりすることを指す。 例え現在経営者でなかったとしても、自身の身の回りや目の前の事だけでなく、俯瞰して全体の状況を把握した上で最も成果につながる行動を取ることが経営者目線を持って仕事に取り組むこと。


社員の「全員経営」なんていうトレンドもありましたね?


もしも、社員の多くが「経営者目線」で仕事を考え、実施したとしたらどうでしょう?

 

恐らく、その会社は1か月も持たずに破綻するでしょう?


会社において「経営者目線」で物事を本気で考えるのであれば、

 

経営者と同じだけの年俸を与えないと

 

意味がありませんし、そういったことができる会社は世界でどこにもないはずです。


普通に考えれば、「ジョブ・クラフティング(job crafting)」や「経営者目線」などという考えには至らないと思うのですが、なぜこういったモノがトレンドになったり、実際に研修や企業内教育で行われるか?


答えは、あまりにも簡単です。

ビジネスマナー同様、

 

目新しい研修や教育を行うことが商売になる

 

からです。


21世紀ももう20年以上経つのですから、、、そろそろこういったことが ”マヤカシ” であるということに気づいてもいいと思うのですが、

世の中はまだまだ事例主義後追い、、、の文化が蔓延してしまっています。


・価値観の共有

・社員が主体的に行動できる環境を整える


などというのは、あくまで ”経営者” ”研修会社” のメリットを最大にする陳腐な考えだということです。


社員の”モチベーション”、”生産性”を上げたいのであれば、


「”給料”を上げればいいだけ」


です!


などというと、


「そんな効果は一時的だ」

「いくらお金を貰っても、やりがいのない仕事などやりたくない」

QOLが一番大切」


といった反論が必ずあります。


年俸1億円の役員が1.5億円になるのと、

1千万円もらってる社員が1千5百万円になるのと

 

は ”全く意味合いが違う” ということを誰も語りませんし、

 

”お金” のことを語るのは下品だ、、、みたいな文化がある限りは、今後も「ジョブ・クラフティング(job crafting)」「経営者目線」「やりがい」などという ”精神論” 的なアプローチが世に蔓延るのだと思います。

 

「国語力」はどこまで必要なのか(とらえ方)? 

「教育・学習」の分野において、「国語力」 ”ある程度” 必要だということは誰でも理解できます。


では、その ”「国語力」はどこまで必要なのか(とらえ方)?” ということについて考えてみます。


まず、「国語力」の定義については、国が出している情報を見てみます。


(国語力のとらえ方)

 

「これからの時代に求められる国語力」を大きく二つの領域に分けてとらえる。

 

(1)「考える力」,「感じる力」,「想像する力」,「表す力」から成る,言語を中心とした情報を処理・操作する領域

 >国語力の中核であり,言語を中心とした情報を「処理・操作する能力」としての「考える力」「感じる力」「想像する力」「表す力」の統合体として,とらえることができるもの


(2)「考える力」や,「表す力」などを支え,その基盤となる「国語の知識」や「教養・価値観・感性等」の領域

 >「(1)の諸能力」の基盤となる国語の知識等の領域


この二つの領域は,相互に影響し合いながら,各人の国語力を構成しており,生涯にわたって発展していくものと考える。

なお,読書は,(1)の「考える力」「感じる力」「想像する力」「表す力」のいずれにも関連しており,(2)の国語の知識等の領域とも密接に関連している。国語力を高める上で,読書が極めて重要であることは,この点からも明らかである。


「本を読め」、、、ということですが、それはイイですね? 国もたまにはイイことも発信します。

国語力

構成要素については、


・「考える力」

分析力,論理構築力などを含む,論理的思考力。 分析力は,言語情報に含まれる「事実」や「根拠の明確でない推測」などを正確に見極め,さらに,内在している論理や構造などを的確にとらえていける能力。自分や相手の置かれている状況を的確にとらえる能力でもあり,知覚(五感)を通して入ってくる非言語情報を言語化する能力でもある。論理構築力は,相手や場面に応じた分かりやすく筋道の通った発言や文章を組み立てていける能力。


・「感じる力」

相手の気持ちや文学作品の内容・表現,自然や人間に関する事実などを感じ取ったり,感動したりできる情緒力。美的感性,もののあわれ,名誉や恥といった社会的・文化的な価値にかかわる感性・情緒を自らのものとして受け止め,理解できるのも,この情緒力による。言葉の使い方に対し,微妙な意味の違いや美醜などを感じ取る,いわゆる「言語感覚」もここに含まれる。


・「想像する力」

経験していない事柄や現実には存在していない事柄などをこうではないかと推し量り,頭の中でそのイメージを自由に思い描くことのできる力。相手の表情や態度から,言葉に表れていない言外の思いを察することができるのも,この能力。


・「表す力」

考え,感じ,想像したことを表すために必要な表現力であり,分析力や論理構築力を用いて組み立てた自分の考えや思いなどを具体的な発言や文章として,相手や場面に配慮しつつ展開していける能力。


だそうです。


「考える力」,「感じる力」,「想像する力」,「表す力」とだけ聞くと、 となりますが、この要素で構成される、


「日本語を運用する総合的な力」


と言われると、まぁそんなモノかなとも思います。


日本人だけでなく外国の人も、その人の「母国語」で ”考え、感じ、想像し、表す” でしょうから、、、


一般的には、なんとなく「読解力」「読み書き」「表現力(言語化)」みたいに思うのですが、まぁ、それでは「国語」のお勉強をしましょう、、みたいになるので、決めきれないのでしょうね?


では、「教育・学習」において、そういった「国語力」が必要な理由は、


・理解力向上

文章を読み解く力や、自分の考えを言葉にする力が向上します。この能力は、他の教科の教科書を理解するためにも必要です。特に、社会科や理科などの教科では、専門的な内容を学ぶために、複雑な文章を読み解く力が求められる。


・問題解決力向上

問題文の意味を把握し、適切な解答を導き出す力も強くなります。算数や数学などの教科でも、問題文を理解し解答につなげる力は重要。


・情報収集力向上

情報を効率的に収集し、整理する力も養われます。どの教科でも、さまざまな情報を正確に理解し、自分の知識として吸収する力は必要。


・表現力向上

自分の考えを他人に伝えるための表現力とも密接に関連。プレゼンテーションやディスカッションなど、他人とのコミュニケーションを通じて学びを深める場面では、国語力が大いに役立つ。


・思考力の向上

言葉を通じて自分の考えを整理する能力、論理的に思考する能力も向上する。論述問題などの解答に必要なスキル。


となります。


学習をするには間違いなく ”ある程度の国語力” が必要になりますね? 

この場合は、

 

「読んだり、聞いたり、見たりしたことを理解して、考え、アウトプットできる能力」

 

ということです。


では、それは ”どこまで必要なのか?” ということになると、すべてが曖昧になってしまいます

 

何をもって「国語力」が高い、低いという基準も何もないのですがら、、


現実的な話だと、あらゆる教科のテスト(英語のテストであっても、多分普通の日本人は、脳内で英語を日本語に変換してから考えると思うので)を受けるにしても、


・何を問うているか?


が理解できなければ、例えその問題を解く知識・スキルがあったとしても正解はできません。

しかし、こういった場合、「出題する側」「受ける側」「国語力」に大きな差がある場合、、、トラブルが起こります。


通常は、

 

「出題する側」が「国語力」が高く、「受ける側」の「国語力」が低い場合

 

が想定されますが、

 

その逆であることも多々あります。

 

「出題する側」の「国語力」が低く、「受ける側」が「国語力」が高い場合


特に、小学校などのテストでたまに話題になりますが、


「計算式を書け」と問題に記載していないにもかかわらず、

(問題1)
 3つのリンゴと4つのリンゴをかごに入れると、いくつになりますか?

 生徒の答え:7つ (×)

 先生の正解:3+4=7 7つ

 

みたいに、、、「教育・学習」への不信感につながることもあるでしょう、、?

 

共通言語(日本人が日本人と)でコミュニケートしていたとしても、それぞれのレベルが違うと意思疎通できないという問題は常にありますね?

 

しかし、「国語力」は決まりきったモノではありませんし、また厄介なことに時代によっても、状況によっても変化しますし、表現方法自体が変わることも多いモノです(「”全然”大丈夫!」のように、、)


では、どうすればいいのか? 

 

に勿論、答えはありません。

 

もし、できるとすれば、その時代に最もポピュラーな書籍や文章を学校や企業において全員に配布し、「国語力」のベースというようなことを作ることくらいでしょうか?

 

少なくとも、1つのクラス、学年、企業の1部署で実施することは可能なように思います。

 

Aさんは「明治の文豪の文章、言葉」

Bさんは「村上春樹の小説」

Cさんは「翻訳されたレヴィ・ストロース

Dさんは「ビジネス書一般」

    ・
    ・

な状況で、「国語力」が ”どこまで必要なのか?” は決めようがないですものね?

 

また、最後に

「地頭(じあたま)」というトレンドも ”無意味すぎる” とだけ言っておきます。

「学習のアフォーダンス(affordance)・シグニファイア(signifier)」について

今回は、”「学習のアフォーダンス(affordance)・シグニファイア(signifier)」” について考えてみます。


アフォーダンス(affordance))


認知心理学者のジェームズ・ギブソンによって提唱された”環境が動物に与え,提供している意味や価値”という概念。

・人間は環境の中に実在する意味や価値を直接知覚すること,情報をピックアップすることで、行為することができるという生態学的な見方。

・物事がもつ「可能性」や「機能」のこと。

・「モノ」と「人間」の間に生じる、行動における関係性。

・人間や動物が物事をどのように理解し、どのように行動するかを説明するために用いられる。

・周囲の環境が我々に提供する意味や価値といった情報。


ということで、上記の内容は多くの分野で考慮され、取り入れられている概念ですね?


「教育・学習」の文脈においては、


・学習者が教材や環境から得られる”学習の可能性”を指すこと。

・学習や知覚能力を広げるテクノロジーの性質や働き

などと、とらえられることもあります。


そして、4つの分類をする場合もあるようです。

・認知的アフォーダンス

 >どのように人が学習するのかに関連した基準を網羅する

・社会的アフォーダンス

 >共有された人間の活動に関連した基準を網羅する

・情緒的アフォーダンス

 >学習の動機づけの側面に関連

・経済的アフォーダンス

 >教育理論や実施に関連するリソース(資源)や他の現実的な問題に関係


アフォーダンス”教材や環境” が提供する「学習の可能性」を評価するための重要な概念であり、学習者にとって最適なアフォーダンスを提供できるようにデザインすることが必要だということですね?

 

ただ、当然のようにアフォーダンス個々の学習者によって評価が異なります

 

視覚的な情報を好む学習者にとっては、視覚的な要素が豊富な教材は視覚的な学習のアフォーダンスが高いですが、テキスト情報を好む学習者にとっては、その逆になってしまいます。

学習のアフォーダンスは、”教材や環境” が提供する「可能性」なので、それがどの程度活かされるかは、学習者の個々の能力や嗜好に依存するということです。


一部の学習者にとっては高いアフォーダンスを提供する教材や環境でも、他の学習者にとっては低いアフォーダンスしか提供できないという、、、

アフォーダンス

では、「シグニファイア(signifier):知覚のアフォーダンス理論」は?


(シグニファイア(signifier))


・対象物と人間との間のインタラクションの可能性を示唆する手掛かりのこと。

・デザイン用語としては、アメリカ合衆国認知科学ドナルド・ノーマンによって提唱された。

・モノが人に対して与える行動の手がかり。

・人を特定の行動に誘導するためのヒント。

アフォーダンスの考えをデザインに応用し、“アフォーダンスによって我々が身の回りの製品の使い方を左右される”という概念。


アフォーダンスとシグニファイアの違いは、

 

”周囲の環境が我々に提供する意味や価値といった情報”がアフォーダンスであり、このアフォーダンスをデザインに応用したもの”がシグニファイアである

ということですね。


個人によって受け取り方が違うという前提があるので、「この場合はこう」、「違う場面ではこう」、、ということはなかなか難しいですが、教材や環境をデザインする際には、ある程度このようなコトを考えてみるというのもアリかと思います。


シグニファイアはWebデザインにもよく考慮・適用されますね?

 

マニュアルレスが当たり前になったネット世界での学習においては”UI”をいかに学習しやすいように作成するか? ということも結構重要ですね?


また、以前に記した「ナッジ(nudge)」”シグニファイアを用いて人に特定の行動を促す” ことですね。


アフォーダンス → シグニファイア → ナッジ」

といったところでしょうか?


「教育・学習」の世界から少し離れて、「心理学」界隈を散策してみることから得られることもあるかもしれません。


因みに、元々の「シグニファイア」は、言語学者フェルディナン・ド・ソシュールが提唱した言語学上の概念で、「言葉や記号」と「その表す意味」との関係。 特定の言語や文化圏で「共通の意味」を持つ記号や言葉のこと。「人の行動を正しく誘導するためのサイン」を意味します。


ソシュールといえば、、構造主義に大きなヒントを与えたことで有名ですね?


やはり「心理学」だけでなく「哲学」にも目を向けると面白いですね?

「チームビルディング」の不必要性について

今回は、”「チームビルディング」の不必要性について” 考えてみたいと思います。


高度成長期が終焉を迎え、不況の波が押し寄せてきたころから、徐々に「チームビル

ド」もしくは「チームビルディング」というコトバが巷で聞かれるようになりました。


”業績が伸びないのは、各チームが機能していないからだ”、、、みたいな勘違いが、企業においての  ”常識”、”トレンド” になってきたわけです。


そして、教育・研修業者による「チームビルディング研修」という ”お金儲け” が盛んになり、多くの企業が毎年のように管理職、リーダーといった給料の高い社員を「研修」に参加させています。


高額な「チームビルディング研修」に参加して帰ってきた社員のチームが実績を上げ、成果を出しているのなら ”費用対効果” は良好だということになるでしょう。

さて、実態は?、、、と考えてみると、このような ”研修” に参加して本当に成果が出ているでしょうか?

チームビルディング

(チームビルディング)


全体で同じ目標に向かい、達成するための組織づくり。

組織に属する社員などの構成員がそれぞれに持つ特技・長所・能力などを高めていきながら、組織全体のパフォーマンス向上に役立てられる形を作ること。
組織を構成する全ての人を対象にして行う。

構成する全員が、組織の一員であるという共通認識を持ちながら、自己の能力向上につなげていくことが役割。

強い組織を構築していくための手法。

メンバーのスキルや能力、経験などを最大限に引き出し、目標を達成できるチームづくり。


まぁ、ありきたりで、とても希望が持てそうにありませんね?


今はどうかわかりませんが、少し前のそういった”研修”では、必ず「タックマンモデル」を延々と講義していました。


(タックマンモデル)

 

チーム結成から成果を生み出せる状態になるまで、組織の成長段階を5つのステージにわけたモデル。

心理学者のブルース・W・タックマンが1965年に提唱

提唱当初は4段階のモデル、1977年に1段階追加されて現在の5段階になった。

組織の進化の段階を「形成期 (Forming)」、「混乱期 (Storming)」、「統一期 (Norming)」、「機能期 (Performing)」、「散会期 (Adjourning)」の5つのプロセスに分けたモデル。


「1965年に提唱」された、、、、60年も前の組織理論、、、、???


勿論、「教育・学習」の理論等も古いものはあります。しかし、時代と環境に対応してアップデートされ、新しい考えが上書きされています。


ところが、いまだに「タックマンモデル」は「チームビルディング研修」では”正論”として語られます。

 

60年前とは、ほとんどすべてが変わってしまった”組織”という形態を、60年前の理論でどう良くするのか? 

 

なんとなく ”正気の沙汰ではない” 気がします。

 

そもそも、、、(「そもそも」という人はダメ、、みたいなことを書いたビジネス書がありましたが、今回はどうしても「そもそも」を使わざるをえないので勘弁してくださいね)、


「チームビルディング」から始めること自体が間違っている!


と考えています。


「チームビルディング」という考え自体、

 

・管理職、リーダー

と、

・メンバー

 

最初から分けています。

「チームビルディング」→「マネージメント」・・・・と一連の”研修”が続きますが、 ”メンバー” は置いてけぼりです。


個々の ”メンバー” が存在しなければ ”チーム ” は存在しません。

 

チームが業績を上げ、成果を出し、会社が発展するには、


「チームワーク」「チームビジョン」「コミュニケーション」、、、の前に、

 

「個人の学び・成長・業績」


が第一だと思うのです。


それを ”one size fits all ”  の ”60年前” の理論や考えで纏めたとして、いったい何が得られるのでしょう?


「チームビルディング研修」「マネージメント研修」ほどコスパの悪い研修はないように思います。


まずは、メンバーの知識・スキルをアップさせる「教育・学習」を考えるべきですね?


企業では、経営者、役員、管理職、リーダー、メンバー、、、それぞれの立場があり、組織は形成されています。

 

そこで、最も人数割合が多いのは?

 

経営者、役員、管理職、リーダーではありませんね?

普通の社員、チームのメンバーが大多数を占めるわけです。


経営者、役員、管理職、リーダーが、”60年前”の不変ではない古い理論研修が有効かそうではないかを判断できる知識を身につける必要がありますね?


メンバーの真正な「教育・学習」が全くできていないのに、まずは「チームビルディング」だとか考えるのは本末転倒(?)ではないかと考えます。

 

「チームビルディング」「マネージメント」「コーチング」「ビジョン」「コミュニケーション」などというコトバが過大評価されすぎている気がするのです。

「対面」か「オンライン」か? ではない選択肢

学校はもとより、企業の研修・教育においても、常に


「対面」「オンライン」か?


という議論がなされています。


そこで、今回は ”「対面」か「オンライン」か? ではない選択肢 ”について考えてみたいと思います。


学校も企業も、かつてはほとんどが「対面」で授業や研修、教育を行っていました。


企業では、不景気をきっかけに、「コストダウン(だけ)」の為、20年ほど前から「e-Learning」の導入が大企業を中心に進み、、、、


「垂れ流しの e-Learning」という悪しき文化が生まれました。


そのせいもあって、「オンライン」という方略は、もてはやされる前に、”地に堕ち”


”授業や研修、教育は、「対面」でやる方が効果がある!”

 

だとか、

 

”「オンライン」はあくまで「対面」ができない時の代替手段 ”


という意識が「教える側の人々」の脳裏に刻まれてしまいました。


ところが、コロナウィルスが全世界で蔓延し、「リモートワーク」という環境変化が起こり、

 

教育も研修も会議も、ZOOMLMS で行うことが当たり前、、、

の時代が ”少し前” にやってきました。


この際、私的には、


”「教育・学習」が変わる(変えられる)チャンス!”


だと考え、いくつかの講演や情報共有の場で、


・”成果”を出せるなら、”対面”でも”オンライン”でも、どちらでもいいのではないか?

「対面」に拘る理由がわからない、、

ZOOMで飲み会とか、、、バカじゃないの?

 

などと、発言してきました。


世の中も、”ポスト・コロナ” だとか、”DX” だとか言われていた頃で、

概ねコロナが終息しても

 

「もう、コロナ前のように、毎日通学通勤して、「対面」で授業、研修、仕事をする時代には戻らない、、、」

 

という有識者(アカデミアの専門家)の意見がほとんどでした。


ところが、コロナが少し落ち着くと、

独学

あれだけ成果主義エンゲージメントなどと煽っていたはずのアメリカのIT大手(GAFA)や、イーロン・マスクのようなインフルエンサー最早カリスマではなくなりましたね?)たちが、


「出勤しないとクビ」

「リモートワークは週1,2回まで」

「会議は対面で!」

「在宅勤務だと怠ける」

「コミュニケーションは対面でないとムリ」

 

みたいなことをやりだして、


「ポストコロナ」は「プレコロナ」だった、、、

という散々なオチがついてしまいましたね?

 

さて、ここからが、今回のテーマですが、

 

学校、企業の研修・教育は「対面」か「オンライン」しかないのでしょうか?

と考えたわけです。

 

なぜなら、今の「プレ=ポストコロナ」の時代では、


”圧倒的に「対面」に意識が寄ってしまって”


おり、どちらが有効か? などという議論にはなりえないからです。

「オンライン」の有効性や、この場合は成果が出しやすい、、などと言っても誰も考えようともしないわけです。


ガニェの学習成果の5分類でいうなら、

記憶(言語情報)でも応用(知的技能)でもなく、


「認知的方略」

自らの学習を効果的にするための作戦の習得。学習者が学習の仕方を覚える方法。つまり学習する方法や手段をじぶんで独自に考え適用する

を自分課してみたわけです。


普通に考えられるのは、

 

「対面」と「オンライン」をブレンドさせた「ブレンデッド教育」とか「ハイブリッド教育」「反転教育」みたいなものでしょうね?


そういったモノはこれまで多くのところでやられているのと、「オンライン」を補助、前提にして、結局は「対面」の授業や研修をメインにしています。

「対面」ありき

なわけです。

 

それではあまり意味が無い、、、ので、

 

となると、やはり

「自学」「独学」

くらいしかないですね、、、、。

 

「独学大全 絶対に「学ぶこと」をあきらめたくない人のための55の技法 / 読書猿 (著)」

でも参考にして、、、、とは言いませんが、

やはり


「学習」は自分個人で行うモノ


です。


・教育・研修の期間はどこで何をしているかなど管理せず、

・最終の「評価」となるテストさえできれば、

・学校、会社に通勤通学しなくてもいいという方略。


はどうでしょう?

「自由に学ばせる」

ということです。


これだけ情報があふれている時代ですから、学ぶ手段も、答えもすぐに見つかります。それをわざわざ「ご講演」してもらわなくてもいいわけです。


・方法は問いません

・本でもメディアでもネットでも人でも何でも使って

・学んでください

・「テスト」に合格しなければ「留年」「減俸」の場合があります


で、よくないでしょうか?


「対面」も「オンライン」も必要のない教育、恐らくそれが一番「成果」が出ます。

これも一つのインストラクションの選択肢ではないでしょうか、、、?

「嫌々のOJT」考察

企業においては、多くの職種でOJT(On-the-Job Training)」が行われます。

大概は、新入社員部署異動の人を対象に「研修期間中」に実施されますね?

教育をする側としては、一般的且つ実践的、効果的だと考えていると思うのですが、対象者(学習者)としての捉え方は、おそらく逆です。


「やりたくない・・・」

「怒られたらどうしよう・・・」

「やるなら上司やトレーナーの監視が無い方がいい!」


という人が殆どだと思います。

中には、前向きに捉える人もいるでしょうが、大半は「嫌々」です。


今回は、「嫌々のOJTについて考察してみたいと思います。

OJT

OJT:On-the-Job Training)


日常の業務に付きながらの職業教育。

起源は第一次世界大戦時のアメリカで、膨大な軍人を育成するために生まれた「4段階職業指導法」。

・やってみせる(Show)
・説明する(Tell)
・やらせてみる(Do)
・確認、追加指導(Check)

が基本的な手順。

教育担当の先輩社員が日常業務のなかで、マンツーマン指導する。

日本では高度経済成長期に輸入された。

社員研修においての基本的な手法。

変容を続けながら多くの企業において実践的かつ効果的な研修手法として活用されている。


インストラクショナルデザイン同様に、やはり軍隊が起源なんですね?

 

「教育・学習」「人材育成」という、

 

何もしなければ ”無” であるもの

 

には、やはり「強制」「規律」、、、といったネガティブが付き纏いますが、それは仕方ないことですね、、、、人間は元来怠惰な生き物ですからね?


(OJT3つの原則)


・意図的:トレーニングを行う目的や目標を明確にすること
・計画的:十分に企てられた育成計画に基づいてトレーニングが行われること
・継続的:反復的、段階的に継続したトレーニングが行われること


(メリット)


・実践的なスキルの習得

実際の職場環境で行われるため、実務に直結したスキルや知識を習得できる。

 

・即時フィードバック

仕事をしながら学ぶため、即座にフィードバックを受け取り、改善に活かすことができる。


・社内文化の理解

会社の運営方法や社内文化を直接学び、組織への適応を早めることが可能。

 


(デメリット)


・誤った習慣の習得

指導者が誤った方法を教えると、それが習慣化してしまう可能性がある。

 

・指導品質のばらつき

指導者のスキルや経験により、指導の品質が一定でないことがある。


・職務遂行との両立

訓練を受けながら仕事をこなすため、両立するのが難しい場合がある。訓練が業務の妨げになる場合もある。


私的には、「嫌々のOJT」にメリットは少ないと思っています。

 

ということで、大半が「嫌々」なので、OJT」にあまり固執しない方がいいのではないか、と考えます。

 

やる側は、

「現場を知る」

「仕事に慣れる」

「新たな視点が得られる(気づき)」

「即戦力」

というコトバを並べ立てますが、「嫌々」やって、そうなるでしょうか?

 

また、付き合わされる先輩社員、片言の説明を受ける顧客、、、にとってはたまったものでないですよね?

 

究極的なことを言えば、

 

これから何年、何十年とその仕事をやるんだから、知識もスキルもない新人研修期間に焦ってやる必要は全くない!

 

ということです。

それでもOJT」をやりたいというのであれば、事前に対象者に確認をとって、「やりたい!」という人だけに実施するのがいいでしょう!

 

「嫌々のOJT」はムダなので、即座にやめるべきと考えます。