「教育・学習」の分野において、「国語力」が ”ある程度” 必要だということは誰でも理解できます。
では、その ”「国語力」はどこまで必要なのか(とらえ方)?” ということについて考えてみます。
まず、「国語力」の定義については、国が出している情報を見てみます。
(国語力のとらえ方)
「これからの時代に求められる国語力」を大きく二つの領域に分けてとらえる。
(1)「考える力」,「感じる力」,「想像する力」,「表す力」から成る,言語を中心とした情報を処理・操作する領域
>国語力の中核であり,言語を中心とした情報を「処理・操作する能力」としての「考える力」「感じる力」「想像する力」「表す力」の統合体として,とらえることができるもの
(2)「考える力」や,「表す力」などを支え,その基盤となる「国語の知識」や「教養・価値観・感性等」の領域
>「(1)の諸能力」の基盤となる国語の知識等の領域
この二つの領域は,相互に影響し合いながら,各人の国語力を構成しており,生涯にわたって発展していくものと考える。
なお,読書は,(1)の「考える力」「感じる力」「想像する力」「表す力」のいずれにも関連しており,(2)の国語の知識等の領域とも密接に関連している。国語力を高める上で,読書が極めて重要であることは,この点からも明らかである。
「本を読め」、、、ということですが、それはイイですね? 国もたまにはイイことも発信します。
構成要素については、
・「考える力」
分析力,論理構築力などを含む,論理的思考力。 分析力は,言語情報に含まれる「事実」や「根拠の明確でない推測」などを正確に見極め,さらに,内在している論理や構造などを的確にとらえていける能力。自分や相手の置かれている状況を的確にとらえる能力でもあり,知覚(五感)を通して入ってくる非言語情報を言語化する能力でもある。論理構築力は,相手や場面に応じた分かりやすく筋道の通った発言や文章を組み立てていける能力。
・「感じる力」
相手の気持ちや文学作品の内容・表現,自然や人間に関する事実などを感じ取ったり,感動したりできる情緒力。美的感性,もののあわれ,名誉や恥といった社会的・文化的な価値にかかわる感性・情緒を自らのものとして受け止め,理解できるのも,この情緒力による。言葉の使い方に対し,微妙な意味の違いや美醜などを感じ取る,いわゆる「言語感覚」もここに含まれる。
・「想像する力」
経験していない事柄や現実には存在していない事柄などをこうではないかと推し量り,頭の中でそのイメージを自由に思い描くことのできる力。相手の表情や態度から,言葉に表れていない言外の思いを察することができるのも,この能力。
・「表す力」
考え,感じ,想像したことを表すために必要な表現力であり,分析力や論理構築力を用いて組み立てた自分の考えや思いなどを具体的な発言や文章として,相手や場面に配慮しつつ展開していける能力。
だそうです。
「考える力」,「感じる力」,「想像する力」,「表す力」とだけ聞くと、? となりますが、この要素で構成される、
「日本語を運用する総合的な力」
と言われると、まぁそんなモノかなとも思います。
日本人だけでなく外国の人も、その人の「母国語」で ”考え、感じ、想像し、表す” でしょうから、、、
一般的には、なんとなく「読解力」「読み書き」「表現力(言語化)」みたいに思うのですが、まぁ、それでは「国語」のお勉強をしましょう、、みたいになるので、決めきれないのでしょうね?
では、「教育・学習」において、そういった「国語力」が必要な理由は、
・理解力向上
文章を読み解く力や、自分の考えを言葉にする力が向上します。この能力は、他の教科の教科書を理解するためにも必要です。特に、社会科や理科などの教科では、専門的な内容を学ぶために、複雑な文章を読み解く力が求められる。
・問題解決力向上
問題文の意味を把握し、適切な解答を導き出す力も強くなります。算数や数学などの教科でも、問題文を理解し解答につなげる力は重要。
・情報収集力向上
情報を効率的に収集し、整理する力も養われます。どの教科でも、さまざまな情報を正確に理解し、自分の知識として吸収する力は必要。
・表現力向上
自分の考えを他人に伝えるための表現力とも密接に関連。プレゼンテーションやディスカッションなど、他人とのコミュニケーションを通じて学びを深める場面では、国語力が大いに役立つ。
・思考力の向上
言葉を通じて自分の考えを整理する能力、論理的に思考する能力も向上する。論述問題などの解答に必要なスキル。
となります。
学習をするには間違いなく ”ある程度の国語力” が必要になりますね?
この場合は、
「読んだり、聞いたり、見たりしたことを理解して、考え、アウトプットできる能力」
ということです。
では、それは ”どこまで必要なのか?” ということになると、すべてが曖昧になってしまいます。
何をもって「国語力」が高い、低いという基準も何もないのですがら、、
現実的な話だと、あらゆる教科のテスト(英語のテストであっても、多分普通の日本人は、脳内で英語を日本語に変換してから考えると思うので)を受けるにしても、
・何を問うているか?
が理解できなければ、例えその問題を解く知識・スキルがあったとしても正解はできません。
しかし、こういった場合、「出題する側」と「受ける側」の「国語力」に大きな差がある場合、、、トラブルが起こります。
通常は、
「出題する側」が「国語力」が高く、「受ける側」の「国語力」が低い場合
が想定されますが、
その逆であることも多々あります。
「出題する側」の「国語力」が低く、「受ける側」が「国語力」が高い場合
特に、小学校などのテストでたまに話題になりますが、
「計算式を書け」と問題に記載していないにもかかわらず、
(問題1)
3つのリンゴと4つのリンゴをかごに入れると、いくつになりますか?
生徒の答え:7つ (×)
先生の正解:3+4=7 7つ
みたいに、、、「教育・学習」への不信感につながることもあるでしょう、、?
共通言語(日本人が日本人と)でコミュニケートしていたとしても、それぞれのレベルが違うと意思疎通できないという問題は常にありますね?
しかし、「国語力」は決まりきったモノではありませんし、また厄介なことに時代によっても、状況によっても変化しますし、表現方法自体が変わることも多いモノです(「”全然”大丈夫!」のように、、)
では、どうすればいいのか?
に勿論、答えはありません。
もし、できるとすれば、その時代に最もポピュラーな書籍や文章を学校や企業において全員に配布し、「国語力」のベースというようなことを作ることくらいでしょうか?
少なくとも、1つのクラス、学年、企業の1部署で実施することは可能なように思います。
Aさんは「明治の文豪の文章、言葉」
Bさんは「村上春樹の小説」
Cさんは「翻訳されたレヴィ・ストロース」
Dさんは「ビジネス書一般」
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な状況で、「国語力」が ”どこまで必要なのか?” は決めようがないですものね?
また、最後に
「地頭(じあたま)」というトレンドも ”無意味すぎる” とだけ言っておきます。