今回は、 ” 「学習」の根本的な「目的」再考 ” というテーマで考えてみます。

このところ年のせいか、環境のせいかはわかりませんが、少しだけ疲れた感があり、文字を書く(打つ)という ” 行為 ” が起こらないことがあります。
それでも、ライフワーク(?)と勝手に決めたからには、とりあえず何かを考え、何かを記そうと初心に戻らないと、、、などと考えています。
で、「学習」の根本的な「目的」についてあらためて考えようということです。
” 学習とは、内容を覚えることではなく、それを目的として引き受ける自由な行為である ”
というのは、カント的な考察(?)であり、現実としての「学習」とはかけ離れた ” 理想 ” だということはわかりきっていますが、純粋に(単純に?)このことについて考えてみます。
(カントの「道徳形而上学原論」の一説)
「他人はたしかに私を強制して、私の目的ではないこと(単なる他人の目的のための手段)を ” 行わせる ” ことはできるが、しかし、私がそれを ” 私の目的とする ” よう強制することはできない。
しかも私は、それを自ら目的とすることなしには、いかなる目的も持つことはありえない。私が自ら目的としない目的を持つということは、自己矛盾である。というのも、それは自由の働きでありながら、同時に自由ではないということを意味するからである。」
他人は「行為」は強制できるが、「目的(意志)」は強制できない
目的とは「自らがそれを目的として承認すること」によってのみ成立する
したがって、外から押し付けられたままの目的は、真の意味での「自分の目的」ではない
正論すぎて、、、、言葉もありませんが、、
このことを、
(教育・学習の目的として捉えると)
・外的強制レベル
親や教師は「勉強させる」ことはできる(宿題、試験対策、受験勉強など)
・内的目的レベル
「理解したい」「能力を高めたい」という動機は強制できないし、学習者が自分で目的として採用する必要がある
・学習の根本的な二層構造
>行為:勉強する(強制可能)
>目的:学びたい(強制不可能)
・「形だけの学習」
「嫌だけど言われたからやっている」
>行為:学習している
>目的:採用していない
「目的を持たない学習」になっている
” 学習しているようで、学習していないとも言える ”
・「学習が成立する条件(「目的」の自己採用)
>真の学習の条件
学ぶ対象が自分の目的として引き受けられている(「やらされる」から「やる」に転換)、知識獲得、思考の深化、意味理解が成立。
(教育への含意)
・教師の限界(教師ができること)
>環境を整える
>課題を与える
>行動を促す
学ぶ目的そのものは与えられない
・教育の核心的課題
「目的を採用させること」ではなく、「目的を自分で採用できる状態にすること」
・自由と学習の関係
「目的を持つこと=自由の働き」=「学習とは自由の行使」
こうやってあらためて記してみると、勿論「理想」であり、「幻想」かもしれませんが、初心に戻れるような気がします(しないか、、)ね?
” 学習とは、内容を覚えることではなく、それを目的として引き受ける自由な行為である ”
そして、
” 学習をサポートするのが教育 ”
です。