今回は、「アイデンティティというコトバと教育」 ということで少し考えてみます。
” アイデンティティ ” というコトバが一般的になったのは2000年前後でしょうか?
元々は心理学の考えだと思いますが、ビジネス書、音楽、映画、小説、メディア、、、ありとあらゆるモノがこのコトバを取り上げ、広辞苑にも載っているようですから、ほとんどの人が認知しているのではないでしょうか?
(アイデンティティ:dentity)
人格における存在証明または同一性
人が一個の人格として時間的・空間的に一貫して存在している認識をもち、それが他者や共同体からも認められていること
自己同一性、存在証明
自分が自分であること、さらにはそうした自分が、他者や社会から認められているという感覚のこと
とのことですね?
元々は、思春期、青年期の発達過程やその心理についてのコトバであったものが、次第に拡散を続け、
・個人的アイデンティティ
個人の性格、価値観、信念、目標、興味、能力など、自己に関する認識。
・社会的アイデンティティ
個人が属する社会的グループやコミュニティ(民族、国籍、宗教、性別、職業など)に基づく自己認識。
・文化的アイデンティティ
自分が属する文化や伝統に基づく自己認識。言語、習慣、価値観、歴史などが含まれる。
・職業的アイデンティティ
自分の職業や専門分野に関連する自己認識。職業に対する誇りや使命感、専門知識やスキルなどが関連。
自分の性別に関する自己認識で、性別役割や性別表現、性的指向などが含まれる。
のように、今やあらゆる事柄に ” アイデンティティ ” は使われます。
これは、このコトバの持つ「曖昧さ」と、「納得感」などが大きく作用しているように思うのですが、、、、、
とりあえず、個人的には、 ” アイデンティティ ” というコトバを使う人が苦手で、正直なところ、このコトバ自体があまり好きではありません。
それと、このコトバに付随(?)して流行った、
「自分探し」
というコトバも好きではありません。
さて、教育・学習関係の人々は、本当によくこのコトバを使います。
何故かと言うと、” 責任 ” を持たなくていいからだと思います。
つまり、” 自助 ” や ” 自律 ” ” 自立 ” と同じような感覚です(この3つのコトバも好きではありません)。
「全ての最終的な責任はアナタにある!」
まぁ、それはそうです。「学習」するのもしないのも最後は「学習者」の判断です。
よって、「学習したくない学習者」の責任を「教育」が取る必要はありません。その場合、” アイデンティティ ” を使うというのもいいとは思います。
しかし、「学習したい学習者」の責任は「教育」にあると思うのです。そこで、「学習者」の ” アイデンティティ ” を持ち出して、ああだこうだというような教育者が多すぎるように思うのです。
” アイデンティティ ” というコトバを使うと、すべてが許されてしまうような風潮があり、何でもかんでも ” アイデンティティ ” が溢れています。
学校の先生は勿論、塾講師までが「学習者の ” アイデンティティ ”」を語ります。
「PSI(個別化教授システム(Personalized System of Instruction))や個別最適化の学習は、学習者のアイデンティティを考慮したモノではないのか?」
という人もいるでしょうが、
「そうではないと思います!」
「学習者」が学び、習得するスピードは違うので、それに対応するということです。
一般科目の学習に「学習者」の ” アイデンティティ ” などを持ち出すことは全くナンセンスだと思うのです。
効果・効率を考えた教授方法を提供もせず、「人格形成」などと混同して行う教育には閉口してしまいます。
勿論、「教育」には子供たちが道を外れないような指導や社会生活に適用できる等も含まれますから、そういう面や、心理学、哲学の授業(?)などでは ” アイデンティティ ” も必要なのかもしれませんが、、、、
「学習」のサポートや足場架けなどを行わずに ” ご講演座学 ” だけやって、
・学習者に成果が出たら「教育」のおかげ
・学習者が成果を出せなかったら「学習者個人」のせい
という ” 逃げのアイデンティティ ” が多くの教育者にはあります。
それでは、会社によくいる
・部下の成果は自分の成果(で自分だけ昇進)
・部下の失敗は部下の失敗(で部下だけ降格)
というどうしようもない上司のアイデンティティと同じですね、、、、
一度 ” アイデンティティ ” というコトバを忘れてみませんか?