今回は、「他人と比較する」ということについて考えてみます。
学校教育、企業内教育において、”「テスト作成」の現状マトメ・・・”
でも記しましたが、
本来は「目標基準準拠評価(絶対評価)」であるべき評価が、「集団準拠評価(相対評価)」で行われることが常です。
上位何%、下位何%、、、
などで、「成績」が決まり、進学の基準になったり、昇進昇格の条件になったりします。
「相対評価」の世界は、「差」をつける世界です。
勿論、世の中は「差」をつけることで成り立っているといえ、ありとあらゆる場面で「ヒエラルキー」が顔をだします。
偉い人、偉くない人、優秀な人、優秀でない人、、、、
勉強ができる人、勉強ができない人、、、
お金のある人、お金のない人、、、
そうやって「世界」は回っています。
しかし、「インストラクショナルデザイン」や、「カーン・アカデミー」、「公文式」などでは、
学習者は、学習目標を達成するかしないかの「目標基準準拠評価(絶対評価)」が展開されます。
このことが、ある意味、「世間の常識(相対評価)」と真逆であるということも、”過小評価”されている一因のようにも感じられます。
組織論で言えば「ティール組織」が受け入れられないという事実もありますね?
人間は「他人と比較する動物」だ、
と言えばそうなのでしょうが、すべての人がそう思っているかというと、、、、少数派ではあるでしょうが、
「自分は自分、他人は他人」
という意識の人もいるのではないでしょうか、、、そう思いたい。
「比較は喜びを半減させる」
と言ったのは、「トム・ソーヤーの冒険」や「ハックルベリィ・フィンの冒険」で有名な作家 マーク・トウェイン です。
一般的に、マーク・トウェインと言えば冒険小説作家という分類だと思いますが、それとなく哲学的な文章も書いています。
マーク・トウェインのある一面には、下記の思考があります。
・実体験重視
教育における実体験の重要性を強調。学校教育だけでなく、人生そのものが最良の教育であると信じていた。「私が学校で学んだこと全てを忘れた時、本当の教育が始まった」。
・自由思考
自由思考を大切にした。彼の作品は、既存の社会規範や権威に対する疑問や批判を含んでいる。人々が自分自身の視点を持ち、自分の頭で考えることを奨励した。
・ユーモラスな視点
彼の哲学の中には、ユーモラスな視点が常に含まれている。社会の矛盾や人間の愚かさを風刺し、読者に深遠な洞察を提供する一方で、ユーモラスで楽しい体験を提供した。
・人間性の尊重
すべての人間が平等であるという信念を持っていた。人種差別や奴隷制度に対して強く反対し、その考えを作品に反映させている。
・疑問を持つこと
物事を鵜呑みにせず、常に疑問を持つことの重要性を強調。「教育とは、事実を学ぶことではなく、物事を考える能力を学ぶことだ」と述べている。
・無知の危険性
無知の危険性を頻繁に指摘した。「知らないことが問題ではない。問題は、間違ったことを知っていると思っていることだ」。誤った情報や先入観に基づく判断が、より大きな問題を引き起こす可能性があることを示している。
といった感じです。
「比較は喜びを半減させる」
このコトバは、学習について語ったわけではないのですが、「相対評価」が学習者に「他人と比較する」ことを強制し、「学ぶこと」の魅力を無くさせていると考えることもできます。
インストラクションで、最後は誰もがゴールにたどり着く、という「絶対評価」の中では、「比較」など存在しません。
勿論、一度で合格した人と、二度目で合格した人の間に、若干の葛藤は生まれるかもしれませんが、習得した内容は同じなのですから、、、、
学校のテストで1番を取った生徒は、自分の努力が実り一時的には「うれしい」でしょうが、すぐに次も1番をとらなくては、、ということになり、ストレスやプレッシャーがかかります。
2番を取った生徒は、「あと5点あれば、、、」
10番を取った生徒は、「まだ上に9人もいる、、、」
最下位の生徒は、「この学校で一番勉強ができないんだ、、、」
となりますよね?
これがほんとうに「教育」でしょうか?
”先生”と呼ばれている人たちは、どう考えているのでしょう?
進学校や進学塾などでは、常にこういうことが行われていて、全国何位だから学費、塾費免除、、、などということもあります。
これは以前から記している「外発的動機づけ」ではありますが、親にメリットがあったとしても、当の生徒には大したモチベーションにはなりえないですね?
「他人と比較する」ことの無意味さが、ポピュラーになれば、世の中は少しはマシに、「教育・学習」はもっともっとマシになるのではないでしょうか?