louribot’s blog

学習成果の出る企業内教育(教育全体)についての考察を語ります

「学習者が個人差(自分)を受け入れる」という ” 夢想 ” について

人間は一人一人違います。

 

その簡単な認識さえあれば、「学習者」も一人一人違うということに気づくはずなのですが、「教育」という世界においては、「教える側」の合理性や効率といったものに重きが置かれ、今現在も、集団に向けた”伝承術”を行っている場合がほとんどです。


そして、そんな学習者の集団の中で”相対評価を行い、順位をつけて、

 

「アナタは特別」

「アナタは優秀」

「アナタは普通」

「アナタは少し努力が必要」

「アナタはダメ」

 

などと評価します。


その結果、学習者は、

 

「自分は天才!」

「自分は秀才」

「自分は普通」

「自分はちょっとデキナイ」

「自分はダメ」

 

という心理になり、進む道を誤ったり、諦めたり、、、ということがおきます。


このことは、今回記する「学習者が個人差を受け入れる」ということではありません


単に”洗脳”されて、”思い込まされて”いるだけのことです。


その”洗脳”を解くと、、、、昔流行った「ビリギャル」みたいな話になります。


「学習者が個人差を受け入れる」というのは”メタ認知”の文脈です。


勿論、学習の結果として、偏差値や平均点などを無理やり提供されるわけですから、他人と比べてしまうことは仕方がありません。

しかし、「学習」という領域において、テストは重要な評価ツールではありますが、「教える側」は常に”総合した数値”だけで考えます。学習者の頭の中は覗けませんからね?


そうではなくて、学習者自身が、「個人差を受け入れる」というのは、


自分がどのような分野が好きで、その分野の学習ならどんな内容でも興味が持続し、学ぶことができるかどうかを、学習者が自己確認する作業


のことです。

 

極端に言えば、「自分にはこの道しかないんだ、、、」と、選んだ分野で挫折することなく進んで行けるか?

 

みたいな感じでしょうか?


しかし、そう簡単に「個人差」つまり、自分の行動、思考と結果を認識し受け入れるということはできません。


「やれば、何だってできるし、何にだってなれる!」


というのは、明らかに違うと思うのです(勿論、「夢」を追うことは素晴らしいことですが、、)。


個人の「学習能力」には、間違いなく歴然とした「差」があります。


今回の話は、単に1つのインストラクションを習得できるとかできないとかいう話ではありません。


その人の人生と、それを構築する「学習」の話です。


インストラクショナルデザインでは、対象者を選別し、インストラクションを実施し、事後テストで完全習得を確認できれば、それはそれでいいことです。

 

しかし、例え毎回の事後テストで満点を取ってたとしても、ある一定の高度なレベルにくると思うように理解が進まない、、、ということが起きます。

 

これはあくまで高度なレベルの話です。

通常は、大学大学院の専門分野のことだと認識してもらえればわかりやすいですね、、、。

 

好きな分野を学ぶために、大学の学部に入ったけれど、、、、、

 

という人は非常に多いと思うのです。

 

やり直しはいくらでもできる、、、とはいえ、最初から賢明な判断ができればそれにこしたことはありません。

人間は一人一人違う

では、どうすればそんな壮大な問題が解決できるでしょうか?


私的な想像(あくまで想像です)では、


小学校、中学校では、徹底的に「基礎的な内容」を「すべての科目」で学習し、高校に入ってから自分の位置を確かめ、自分と他人との違いを認識し、その中で学ぶモチベーションが落ちずに、成績もついてくる、、、といった分野・領域を考慮して大学進学を考えてみればいいのではないか?


と思うのです。

 

「学習」は「基礎」を徹底的に、それこそ完全習得しなければ、そのあとの「応用」で必ず「綻び」が起きます。

 

いい加減な「基礎」の学習では、「個人差」はわからないので、これが一番重要です。

 

完璧な「基礎」の知識・スキルがあったとしても、高度なレベルの「応用」でついていけなくなれば、それよりさらに高度なところではどうしようもなくなります。

 

その判断を高校でできれば、大学に入ったけれど、、、、のようにはならないと思うのです。


本来は学校制度や構造を変えるべきですが、それはムリなので、「5教科の基礎」を高校に入るまでに徹底的に学習するべきです。

 

有名難関中学高校受験、、、、正直なところ、そんなモノは最終的な大学とは関係がありません。

 

灘、開成に入って、希望しても、全員が東大に行けるわけではありません。

 

地方の公立高校でも何でもいいわけです。


「学習」は学校がしてくれるわけではありません。


自分がどう認識し、自らが「学ぶ」か、ということです。


こういうことは、音楽やスポーツを志す人たちも分野が違うだけで同じことです。


こんな「教育」や「学習デザイン」を誰かやってくれないかなぁ~

と、夢見ているわけです。