教育関連の人たちが多く読んでいるはずの、
「学習者中心の教育を実現する インストラクショナルデザイン理論とモデル」
Volume Ⅳの第5章「カリキュラムの新しいパラダイム」に関するお話です。
この章を書いているのは、マーク・プレンスキー!
そう、いまや一般語となっている「デジタルネイティブ」「デジタルイミグラント」を発信した人です。
プレンスキーは、「科目の内容ごとに組織化されるのではなく、スキルセットによって整理されたカリキュラム」を提案しています。
つまり、数学の授業、英語の授業、物理の授業と、別々に学ぶのではなく、いくつもの科目を統合して、スキル単位で学ぶカリキュラムということだと思います。
また、学習者が学びたいものを優先して学ぶ、、、という。
(これは小中高では難しいですね? 受験構造があるので)
この内容については鈴木克明先生も結構注目されていましたね?
(因みに、この本の監訳は鈴木先生です)
まぁ、考えてみると、こういった考え方は、これまでも多くの人たちが考え、実践してきたことですね。
ジョン・デューイの「デューイスクール」もそうだし、ミネソタ・ニューカントリー・スクール(MNCS)や、ハイテックハイ(High Tech High)なんかでも近いデザインが採用されています。
今は亡き(?)熊大でやってたSCC(ストーリー中心型カリキュラム)もそうです。
私的には、すごく魅力的で、すべての学校や企業内教育のカリキュラムがこうなればいいとも思います。
*大学や企業で行うのはいいですが、小中高ではデメリットの方が多いとは感じます。
ただ、ここで大きな問題となるのは、
「学習者」が「事前」に「自ら学ぶ」ことが ”大前提”ということです。
実際に、成果を上げているアメリカの学校もありますが、それは個々の科目についての「内容」を「前もって学習者自らが学んでいる」ということです。
(ミネルバもそうですね?)
「学習者」が「事前」に「自ら学習する」のであれば、それ以降の教育デザインは非常に楽になります。
今では中学生でも使う「メタ認知」なんていう話です。
全ての生徒、従業員が「学ぶことの必要性」と「どう学ばないといけないか?」ということを認知し、「学習」すればいいのですが、
現実はそんなにあまくないですね?
「人間は「怠ける」動物」
ですし、
「やらなきゃいけないのはわかってるけど、、、」
やらないものです!
そう考えると、このプレンスキーの提案は、「エリート向けの教育方略」ではないか?
という疑問が生まれます。
「事前に自己で学習」している人だけが「成果」を出せるというカリキュラムです。
こうなってくると、学校自体が不要な気もします。
しかし、「教育」はあらゆる人にとって平等であるべきだと思います。
ただ、世間はその「平等」を、
「同じ内容を全員が同じ時間に「伝達」されること」
つまり、学校の授業や企業での集合研修のようなものだと勘違いしています。
「概念を理解し、実践する」には、「基礎(知識)」が身についていなければ不可能です。
勿論、応用から入り、理解の空白に気づくという方略もありますが、全く何もわからないまま終わる、、ということだって多々あるはずです。
あくまで、「基礎を理解」→「実践体験」→「応用」のようなフローこそが王道だと思います。
そして、それにはやはり、各人に合わせたPSI的なアプローチこそ必要なわけです。
よく塾や教育関連企業の宣伝で、
「誰一人とり残さない!」
みたいなのがありますが、そのデザイン・方略といったらお粗末なものばかりで、それでは多くの人が取り残されるだろう?
って感じです。
結局、何が言いたいのかというと、やはり「基礎知識」を学んでから「応用」へというのが筋でしょ? ということです。