AI(Artificial Intelligence)という言葉が一般的になり、ChatGPT等のブームの影響もあって、今では誰もが「人工知能」という曖昧な概念をなんとなく認知するようになりました。
そこで、今回は「知能」という、至極いい加減な言葉について少し考えてみました。
(知能)とは、
「ものごとを理解したり判断したりする力」という意味
というのが、大体の定義のようです。
「力」=「能力」と考えると、人には生まれた時点ですでに「知能」に差があり、優劣がついているというようにも捉えられます。
いまだに、IQ(Intelligence Quotient)信仰が蔓延しているのは、このことを肯定しているとしか思えません(EQ(Emotional Intelligence Quotient)なんてのも一時トレンドになりましたね?)
教育や学習のことを学んだり、考えたりしていると、
「ほんとにそうなの?」
って、たまに思います。
有名な、チャールズ・スピアマンの「二因子説」では、
「知能」には,「一般的・基本的な知能」と「個別的・特殊的なもの」があり、
・一般因子(g因子)
>すべての知的活動に共通して働く,基本的な知能因子。生得的。
・特殊因子(s因子)
>課題の種類や領域ごとに固有に働く知能因子。後天的。
一般因子が高い人=知的課題において全般的に良い成績をおさめる
一般因子が低い人=成績はあまり良くない
とされ、、、、
「どれかの作業でよい成績を出す人は、他の作業でもよい成績を出す可能性が高い」
なんてことを言ってますね?
しかし、これを肯定してしまったら、「教育・学習」なんて存在する意味がありません。
だって、「知能が高いとされる人」に、「知能が低いとされる人」は、何においても勝れない、、、ってことですから。
それなら、誰も教育を受けたり、学習したりしませんよね?
確かに、何らかの特性(勉強することが面白いと思ったり、素振りを一日千回やりたいと思ったり、、、)はあるでしょう。
100人いたら、100人が違う人間なのですから、、、、
ジョン・デューイはこう言っています。
「人間はすべてに秀でるようにはできていない。コミュニティに参加するようにできている」
スピアマンやIQが示すことがすべてであるなら、
子供のころに「IQテスト」をして、学校も就職もそれで決めればいいだけの話です。
「特性」は「特性」として、「教育・学習」というのは、
あるインストラクションがあり、その学習目標を、
100人中、100人が達成できるということです。
「知能」も「特性」も「知性」も関係ないと思います。
(もちろん、疾病や身体的機能の違いは除く)
なぜ、こういうことを考えたかというと、教師や企業の教育担当のほとんどの人は、つまらない第一印象や、その後のイベント、学歴、顔かたちの好き嫌いなどで、勝手に優劣をつけてしまうからです。
「彼は東大卒だから、よく仕事ができる」
とか、
「彼女は〇×の資格をもってないから、こんなことを教えても無駄だ」
なんて周りで誰かが言ってませんか?
そういうことは全く関係ないよ!
っていうことを証明しようとしているのが、
「インストラクショナルデザイン」であり、「カーン・アカデミー」であり「公文式」なのだと思います。
そういったものにおいては、「教える側」も「学ぶ側」も優劣ではなく、絶対評価の世界が展開されます。
相対評価の世界は「差」をつける世界です。
学校制度も、社会も、その「構造」「システム」が変えられればいいのですが、、、、