「教育・学習・学び」という世界で、もう何十年も前から語られる「パワーワード(Power Words)」として、
・「主体的」
自分自身が中心となって考えたり行動したりする様子を指す形容詞。他人に依存せず、自分で考えて行動することを強調する。自分の意志・判断に基づいて行動するさま。
というのがあります。
”「学習者」が「主体的に(自ら選択し、進んで)」学ぶ”
という考えです。
今なら、「アクティブ・ラーニング」や「適応学習(アダプティブ・ラーニング)」のコンテキストで非常によく使われるコトバです。
自分が興味のあることや、どうしても必要な知識・スキルについては、人は「主体的(自分から)」かつ積極的に学ぶでしょう、、、。
そこで、これまでの「ご講演座学」ではなく、グループワークやPBL(Project Based Learning、Problem Based Learning)、対話型、コミュニケーション重視、、、などの手法がとられ、学習者の ” 興味 ” をひかせようとする試みが行われましたし、まだ行われています。
確かに、こういった方略で、学習者が ” 興味 ” を持ってくれたり、必要性を認知してくれれば、主体的に学ぶようになり成果も出るかもしれない、、、とは思います。
しかし、この「主体的に学ぶ」というコトに大きな疑問があるのです。
・主体的に学んでいるかどうかを、どう測るのか?
ということです。
>積極的に議論に参加することや、問題集を沢山解くことが、「主体的に学んでいる」ことになるでしょうか?
>教師のコトバに”目を輝かせて聞いている”というようなサイキックな事象で測れるでしょうか?
>テストで満点を取ったのは「主体的に学んだ」からでしょうか?
「メーガーの3つの質問」で考えると、
① Where am I going? (どこへ行くのか?)
② How do I know when I get there? (たどりついたかどうかをどうやって知るのか?)
③ How do I get there? (どうやってそこへ行くのか?)
② の「評価」ができないということです。
① でも、「主体的に学ぶ」ということで、具体的な「目標」は作成できません。
また、一般的なインストラクショナルデザインの「3つの目的」とされる、
「教育・研修等」の、
① 効果
② 効率
③ 魅力
と照らし合わせれば、
「主体的」というのは、③の「魅力」が占める部分が大きいのでは? と思うのです。
「魅力」ある教育デザインが「効果」「効率」にいい影響を与えることも確かにあるでしょうが、、、、熱心な鈴木先生信者の私でも、なんとなく、この「魅力」=「興味}=「主体的」ということについては疑問があります。
全ての学習者が「魅力」を感じて、「主体的」な学びを行うことなど可能でしょうか?
そこは「教える側」の曖昧な感覚とか勘でしかなく、学習者個人にしかわからないことです。
「学習者主体の教育」
というコトバなら100%アグリーできるのです。
これまでの、「教える側」が”先生”と呼ばれて、一段高いところから講釈を垂れる「ご講演座学」=「教師(教える側)主体の教育」は、意味がなく、
「教育」において、「主体(メイン・主人公)」は、「学習者」です。
という考えなので、、、。
しかし、
・主体的
・魅力
ということに比重をかけた教育デザインばかりもてはやされることでいいのか、、、と思うのです(アクティブラーニング等で)。
テレビでやってた「世界一受けたい授業」?、、、とか、絶対受けたくないという人も多いと思うのです、、、、
誰もが「主体的に学びたい」授業も科目も、業務内容などないと思うのです。
学習者の感じる「主体的」「魅力」「興味」は、とりあえず後にして、「効果」「効率」を追求した理論としてのインストラクショナルデザインであってほしいと願います、、、
「効果」「効率」をメインにした教育デザインは、「教える側」も「学習者」も面白くないかもしれません。
しかし、それで受験に合格したり、資格を取れるという「成果」が出ればそれでいいのではないでしょうか?
と思うのです。
「主体的」という”魅力的な”パワーワード
は忘れてしまってもいいのではないか、、、と。