前回、” やはり(PSI(個別化教授システム(Personalized System of Instruction)しかない、、” という内容を記しましたが、
現実としては、「PSIは難しい、、」ということも十分に理解しています。
PSI やアダプティブ・ラーニングは、「教育・学習」の最終形であり、ある意味 ”理想” です。
「そんなことばかり言っているから、IDも教育理論も、一般化しないんだ!」
というお叱りの声が、、、聞こえてきますね?
そうですね、、、、
まぁ、確かに、学習者のためになる「教育・学習の理論」や「インストラクショナルデザイン」を普及させようとするには、”現実的” になることは必要です。
以前に「アカデミアの先生たちにはわからないこと」等を何回か記してきましたが、、、、
こういったことをアカデミアの先生たちと意見交換する機会があればいいのですが、私も現在は半分以上リタイヤしているような状況ですし、鈴木先生は武蔵野大、、平岡先生は放送大、、と、、、、、なかなか不可能な要因が多すぎて厳しい状況です。
ということで、たった1人で、ああだこうだと考えているのですが、
「PSIが難しい」のであれば、”妥協案” というか、”現実的な案” はないものか?
と考えています。
「PSI実施」を阻む、最大の要因は「効率」、つまり、システム構築に費用や時間がかかりすぎることです。
(もちろん、先生様たちの考える「教育」というものの概念を変える必要はあります)
現在の環境を0(ゼロ)にして、1から構築するのであれば「PSI」を行うことは難しくありません。
しかし、そんなことができるはずがありませんね?
「学校は既に学校として存在」し、
「企業は既に企業として存在」しています。
そして、学校には、”公平性” を基本においた「クラス」や「学年」があり、企業では、”役職がほとんどすべて(?)”の「教育・研修グループ」があります。
また、世界的に「多様性を受け入れる」、、という大きな流れの中で、”知識やスキルのレベル”まで含めて、”全員に同じ教育を提供しなければ、、、” となってしまっています。
勿論、あらゆる人には平等に「教育」を受ける権利があり、国も企業もそれを提供するべきです。
しかし、”教育の仕方” には様々な考えがあります。
「多様性」「公平性」と「効果的・効率的な教育」は両立できないものでしょうか?
「PSI」ならできますね?
しかし、それがムリとなると、、、
(多様性:ダイバーシティ(Diversity))
人種・年齢・性別・能力・価値観などさまざまな違いを持った人々が組織や集団において共存している状態。
(教育の公平性)
性別、民族的出自、家庭環境などの個人的・社会的状況が教育の可能性を実現す る障害にならず(公平性)、全ての個人が少なくとも基礎的な技能の最低水準に達する(包摂性)ことを意味する。大多数の生徒が、その個人的・社会的状況に関係なく、高水準の 技能を修得する機会を有する。
そう考えると、男子校の私立超難関進学校や、課長部長研修、、、などアウトですね?
考えた上で、一番マシ(?)なのは、
「発展させた公文式」
です。
そこで、まず学校教育を考えると、
現状の日本の学校制度で、大学を最終地点とすると、今のところ大学(女子大以外)ではある程度公平に教育が受けられる、、、かもしれません(まともな教育があるとしての話です)。
そして、出だしの小学校は、、、今のままでいいと思います。
特に低学年は自分で学ぶというより、やはり字の読み方、書き方、足し算、引き算、、、等の最低限の「基礎」についての教育に問題がないし、下手に様々な方略やなんとか法のような特異なことはしない方がいいと思います。
「多様性・公平性」と「効果的・効率的な教育」の両立問題の解決が必要なのは、その後です。
小学校での高学年、中学、高校、、、、においては、
「公文式」をベースとして、それを進化・発展させるというようなことができないでしょうか?
この段階においては、現在の「ご講演座学」は無意味です。
「教育」が主体から、「学習」が主体へと移行すべきです。
「学習」というのは、学習者自身が行います。
各授業では、自分で問題を解き、学び、タスクをクリアしていくという「公文式」でいいのではないかと思います。
ただ、「公文式」の弱点である「サポート」「足場架け」を教師がやる必要があります。
それが「発展させた公文式」です。
時間内に満点合格なら、次の段階の問題を渡す、、、みたいな。
人によっては、若干の「足場架け」をやる場合もあるでしょうが、公式にはやっていないですね?
それを知識やスキルを持った教師がやれればいいと思うのです。
こういうことを言うと、必ず、
「学校は勉強だけをするところではない!」
「そんなことは塾でやれ!」
となります。
しかし、この受験構造の中での「ゴール」はほとんどが「大学に入ること」ですよね?
そういう人たちが大多数なのであれば、それでいいのではないでしょうか?
勿論、スポーツ選手や音楽家、アーティストになりたい人、大学に行きたくない人は、そこから抜ければいいことで、自分の好きなことを自分でやればいい、、、と思います。
今の学校のカリキュラムのほとんどが、上の学校へ行くことを目的に作られているのですから、、、、(この構造が変われば、全ては変わります)。
そして、事前に各授業、各学年のタスクを完了した人は、先の学習をしてもいいし、寝てもいいし、グラウンドでサッカーをしてもいい、、、
それで完ぺきではないですが、「多様性・公平性」と「効果的・効率的な教育」の両立はできそうに思います。
先生が教えて、それを聞く、先生が黒板に書いたことをただ書き写す、、ということをやめることが最も重要なことですね?
そして、当然、企業内教育にも、この「発展させた公文式」は適用できます。
「字さえ読めれば大丈夫」です。
「教えない教育」というコトバが世に出てきた時、多くの人が批判しました。
「教育の”教”は”おしえる”だろ!」
「教えなくて何をするんだ!」
「何にもしなくていいんだな!」
いやいや、、、、「学習者」が「学習」できるようにすること、、という考えが持てない「教育」を受けてきたから、、、、こうなってしまうのですね?
先生様がやってる「ご講演座学」を聞くだけで「学習」になりますか?
それだけで、大学に行った人がいるでしょうか?
そういうことをやれば、塾も不要だし、高額な研修に参加する必要もありません。
そんな気がするのです。