「インストラクショナルデザイン」に出会って、もう10年近くになります。
ブログ ”200投稿記念(?)” として、あらためて「インストラクショナルデザイン」について考えてみたいと思います。
備忘録ですから、そんなにペースを上げなくてもいいのですが、やはり年をとるにつれて記憶が曖昧になるので、思いついたことをなるべく多く上げていこうと思います。
次の目標は300回です。
これまで、自分なりに”学び”、いくつかの事案に”適用”し、更なる”拡散”を目指して「講演」や「レクチャー」で”紹介”、”説明”をしてきました。
しかし、いまだにこの国において「インストラクショナルデザイン」は”異端的”、もしくは”オワコン的”な扱いをうけているのが現実です。
日本の「インストラクショナルデザイン」を引っ張ってきた”熊大の教授システム学専攻”及び”RCiS(教授システム学研究センター)”も事実上”崩壊”し、お先真っ暗、、という状況です。
とはいえ、正しいと思うことを捨ててしまっては自分の存在意義がないので、これからも普及活動を継続していきたいと思っています。
さて、「インストラクショナルデザイン」とは何? ということから始めます。
教育や訓練のプログラムを設計するための科学的な手法や理論を用いたデザインのこと。学習者が特定の知識やスキルを効果的に、効率的に、魅力的に習得するための教育的な環境や体験をデザインすることを目指す。
このプロセスは、教育的な目標を設定し、それを達成するための教材や活動を選択し、学習者の理解度を評価する方法を決定することを含む。
インストラクショナルデザインは、教室の学習環境だけでなく、オンライン学習や職場でのトレーニングなど、さまざまな学習環境に適用される。
まぁ、
「学習者」が「学習」して「成果」を出すためには、どのようにサポートできるか?
を考えることです。
世界中で「教育」や「学習」のことを考える人たちが、教育学、教育工学、心理学、哲学、情報工学、、、使えるものはすべて使って、様々な「モデル」や「方略」「理論」が生み出され、「インストラクショナルデザイン」となりました。
「0から何かを1にした」ということではなく、「1をいくつか集めて10にした」、、、みたいな感じかと思います。
「インストラクショナルデザイン」を学ぶ際に、誰もが最初に手にするであろう「インストラクショナルデザインの原理:ロバート・M. ガニェ, キャサリン・C. ゴラス, ジョン・M. ケラー」を読めばそのことがよくわかります。
とはいえ、コトバが結構ややこしいので、3度は読まないとちゃんと理解できないと思いますが、、、
それで、「インストラクショナルデザイン」のことがほぼ、、わかります。
何が?
「インストラクショナルデザイン」とは、
「”あたりまえ”のことを、”あたりまえ”にやる理論」
だということです。
多くの分野の知恵を拝借して成り立っている「インストラクショナルデザイン」ですから、「論理的」で「批判的」で、「合理的」であるわけです。
そんな「インストラクショナルデザイン」がこの国に入ってきた時、”トレンド好きな国民性(?)”と、聞きなれないコトバへの興味で、多くの教育関係者(企業を含む)が飛びつきました。
当然、彼らは、「インストラクショナルデザイン」が”魔法”や”マジック”であるように考えました。
「インストラクショナルデザイン」を使えば、誰もが「学び」「人材育成でき」、志望校に合格したり、利益が上がる、、、みたいに、、、。
実際は、そうではなくて、”学習者が学習する” という、
「”あたりまえ”のことを、”あたりまえ”にやる理論」
だったわけです。
それがわかると(というより、いい加減に「インストラクショナルデザイン」を取り入れて成果を出せずに終わり、、、、というのがほとんど)、いつものように急に熱が冷め、誰も「インストラクショナルデザイン」を語らなくなってしまいました。
それ以後、「インストラクショナルデザイン」に対する風当たりは強く、「アクティブラーニング」が”トレンド”になった際に、少しだけ復権した感じですが、「アクティブラーニング」もあっさりと消えてしましました。
ネットで「インストラクショナルデザイン」が普及しない原因を検索すると、
・教育文化の違い
日本の教育は伝統的に教師中心であり、インストラクショナルデザインのような学習者中心の教育方法はあまり受け入れられない。また、日本の教育システムは詰め込み型の学習や一斉教育が主流であり、個々の学習者のニーズに対応した教育設計をする文化がないため、インストラクショナルデザインの導入が難しい。
・認知度・理解度の低さ
インストラクショナルデザインは、教育のプロフェッショナルである教師や教育者にとっては比較的新しい概念であり、その重要性や効果を十分に理解していない人も多い。
・リソースの不足
インストラクショナルデザインを実践するためには、時間、人員、財政的なリソースが必要。しかし、日本の教育現場ではこれらのリソースが不足していることが多いため、新しい教育方法を導入するのは難しい状況。
・評価方法の不適合
インストラクショナルデザインの成果は、学習者の理解度やスキルの向上といった形で現れるが、これらは従来の評価方法では測りにくい。日本の教育では依然として筆記試験による評価が主流であり、そのためインストラクショナルデザインの効果を評価するのが難しいという問題もある。
みたいな感じで、ネガティブな意見がどんどんでてきます。
「”あたりまえ”のことを、”あたりまえ”にやる」
ことができていない人に限って、このような言い訳を考えます。
また、「ご講演座学」や「垂れ流しの e-Learning」などの「教育」とも呼べないことを常時やっていて、「インストラクショナルデザイン」はダメだ、、とか言うわけです。
「”あたりまえ”のことを、”あたりまえ”にやる」
というのは、「教える」「伝える」ということではなく、
ロジカルに考えて、「学習者」が「学習」して、「学習目標」を達成できる「教育設計」をすることです。
もの凄く単純な話なのですが、ほとんどの人はコレが理解できません。
「教育の成果を最初からデザインして何が面白いの?」
「それを達成できたから何?」
「創造的ではないし、結果がわからないから教育は面白い、、」
なんているわけのわからないことを言う人が非常に多いです。
それは、、、違うでしょ? と思うのです。
「インストラクショナルデザインの原理」をちゃんと読んでわかることは、
「そりゃそうだ」
「あたりまえだな、、」
ということです。
学習者の前提知識も確認せず授業をやったり、教壇でご講演すれば学習者が理解できると思ったり、学習者の目をみれば理解しているかどうかがわかると感じたり、、、、、この子は勉強してもできない、、などと、、、
いったことが多くの「教える側」の人にとっては「あたりまえ」であり、こちらとしては”異常”なわけです。
勿論、これらは自分の経験からきています。つまり、
「学校での授業」=「教育」
と思い込んでしまっているからです。
・先生が教壇に立って、教科書を読んで伝える、、、、
・ギリシャ時代に哲学者が、字が読めない人々に本を読んでやっていた、、
ことを「教育」だと認知し、「学習者」が「学習」するように手助けすることが「教育」とは考えられないわけです。
この”洗脳”を解くにはどうすればいいでしょうね?
それと、PDCAの一般化に伴い、ADDIEが単なるパクリのように思われたり、プロジェクトマネージメント手法のように解釈されたことも大きな弊害でした。
プロセスモデル=「インストラクショナルデザイン」のモデル
と、認識させるような普及方略(?)の失敗も大きいと思います。
「インストラクショナルデザイン」をまともに学んだ人はADDIEだとかSAMなんかのプロセスモデルなど、ほとんど気にしません。
それは単なるスケジューリングと変わらないからです。
通常、「インストラクショナルデザイン」のモデルといえば、方略や教授内容のモデルであり、アルゴリズムのモデルを指します。
更に、ARCSやアドラーのような”心理学”を強調しすぎたことも大きな過ちのように思います。
教育工学、、であれば受け入れられますが、”心理学”には懐疑的な人が多いと思います。
ある程度の実験で実証された心理学であれば、まだわかるのですが、「インストラクショナルデザイン」オシの私でも、流石にARCS、アドラー、、については別として考えた方がいいのではないかと感じます。
確かに、心理学でARCSやアドラーは重要なことであるでしょうが、それを「インストラクショナルデザイン」の一部のように扱わない方がいいと思うのです。
「心理学」は「心理学」
「教育」は「教育」
であり、「教育心理学」のようなものが「インストラクショナルデザイン」普及の弱点でもあります。
前にも記しましたが、”「教育」が「科学」”として認知されなければ現状は変わらないし、「インストラクショナルデザイン」は一般に受け入れられないように思うのです。
論理的、科学的、エビデンスベース、、、クリティカル、、な部分をもっと強調して「インストラクショナルデザイン」が一般的になればいいな、と考えています。