「AI」という言葉が出てきたころ、モラヴェックのパラドックス(Moravec's paradox)ということがやたら語られることがありました。
これは21世紀になってAIがまた再注目された時にはあまり話題にはならなかったのですが、解決されたわけではなく、AIを宣伝するには有害だと考えた企業や学者によって敢えて蒸し返されなかった、、、といった方がいいのかもしれません。
ネガティブは「悪」のような時代ですからね、、、
では簡単に、このパラドックスについての説明と、「企業内教育」「人材育成」との関連について記していきます。
(モラヴェックのパラドックス(Moravec's paradox))
人間が得意とする高度な認知タスクが、実際には機械にとって比較的簡単に自動化できる一方で、人間が無意識に行っている基本的な感覚や運動タスクが機械にとっては非常に難しい、というパラドックス(逆説)。
1980年代にロボット研究者ハンス・モラヴェックによって提唱。
「我々がどのように物事を知覚し、世界を理解し、身体を動かすかという問題は、我々がどのように思考し、選択し、言葉を理解するかという問題よりもはるかに複雑である」と主張。
チェスや囲碁、将棋のようなゲームはルールが明確であり、ある程度の戦略を組み立てることで機械でも高度なプレイが可能。
一方で、歩く、走る、ジャンプするといった身体的なタスクや、物体を見てそれが何であるかを認識するといった感覚的なタスクは、人間にとっては自然にできるが、機械にとっては非常に難しい課題。
人間が長い進化の過程で身につけた能力は、その複雑さを我々自身が認識できないほど自然に行えるものであり、その複雑さを機械に再現させるのは困難であるという事実を示している。
人工知能やロボット工学における重要な課題。
ということです。
どうでしょう? このパラドックスは現在でも生きてますよね?
ChatGPTが出てきて、まるで「万能の神」でもあるかのように、何でもかんでも「AI」「生成AI」ともてはやされていますが、、、
教育・人材育成業界でも「教育にAIを」とか「AIが学習をサポート」、「AIで人材育成!」、「AI採用」なんて言葉がネットでは頻繁に飛び交います。
ルーチンワークや繰り返しのタスク、答えが唯一無二のテストなんかは、どれだけ手順や計算が複雑であっても対応可能でしょうし、「AI」に任せればいいと思います。
しかし、企業における学習や仕事は、「環境の違い」、「状況変化」、「曖昧・自由度」、というものが多々加味されていきます。
そのような場合、スキーマのない人がどう対応すればいいか、これまでのスキーマがルールが変わることにより全く無意味なものになる場合どうするか、、、、
といったことに、現在の「AI」では対応できません。
「AI」は「論理的」ですから、、、
いや、これは「AI」だけの問題ではなく、
「企業内教育」においての大きな「パラドックス」
なんです。
これまでずっと説明してきたように、「教育」「学習」「人材育成」というものは、あくまで「論理的」に行われないと「効果」はでませんし、「効率」もよくなりません。
だから、インストラクショナルデザイン等の理論や方略を用いて行います。
しかし、現場では、「複数の答えが存在」したり、また、「答えがなかった」り、「何をやっても無駄」、なんていう状況下では、「論理的」に行動することが不正解であったり、むしろ逆効果になることもあります。
勿論、9割以上は「論理的」に行うことで解決できることなのですが、どの世界においても「例外」や「外れ値」というものはあります。
どこかの会社で、出入り禁止になった社員が、クライアントに偶然を装って出会い、「松茸4キロ」を進呈したら、出入り禁止がとけた、、、みたいな逸話もありますが、このようなことには「論理性」なんて通用しませんし、「教育」も「人材育成制度」も無力です。
「一万時間の法則」があまり意味がない、、、と言われることも、「多様性が必要」ということも、ある程度は理解できます。
まぁ、エピソードが誇張されすぎているというのはありますが、、、、、、
なんとなく上記の「パラドックス」のことを考えてしまいます。